2010年8月14日土曜日

最近、思うようになったこと。

仕事にも、メール一通にだって、どれだけ相手をしっかり見て、相手に「心」を込めているかが結局はその人の全てなんじゃないかなと。

木の1本1本にそれぞれ癖があるように、人にも1人ひとり違った個性があり、癖がある。
それを「癖の強い人はいらない」「みんなと同じようにできることがその人の価値」みたいに言うのは違うんじゃないかな、と思います。

例えば、小学校でも社内の教育の場でもいいけど、教室で全員集めて何かを教える場面てたくさんある。
同じことを質問して、その答えの内容でその人のレベルをはかる、そういったことは往々にして行われているけど、教えを請いに来る立場の人が「教えて欲しい」「覚えたい」「興味がある」と思ってもいないことを画一的に「覚えてください」「教えさせてください」としたとしても、教える側にどんだけの熱意があってもその成果はなかなか上がらないように思う。

それで果たして、本当にその人のためになっているのだろうか。
覚えたい人は、何も教えなくたってその人たちを見てるだけで盗んでいくし、自分で体得するには自分で試行錯誤をするのが一番成長すると思う自分からしたら、その時間は長さではなく有無が大事で、それをしっかり取ってやれば気になることは自分から質問なりをして解決していくだろう(この際に、ヒントのみで答えを言わないっていう教える側の態度での協力も必要だと思うけど)。
相手がやりたいことを持っていない段階で何かを提供してしまうことは、相手の考える機会を奪う、そして相手の「何かをしたい」という思いを持つ機会を奪うことにはならないだろうか。

「速い」だけじゃダメだし、「結果」だけでもダメ。
「遅くとも、プロセスをしっかり経て体得していること」こそが大事なんじゃないかなと思います。

そして、そういう人を育てることにかけては、教師は両親にかなわない。
最近、改めて自分の親は子供を育てることに関して、最高のアプローチをしてくれたと思えてきました。

「これをやれ」って言われたことはない。「勉強しろ」なんて言われたことない。
だから、自分で興味のあることを見つけてくることが今でも習慣になってる。
見つけたあとに、それの応援だったり援護射撃は最大限してくれるから、思いっきりそれに取り組むことはできた。でも、答えのあるものでも、親が先に答えを出すことはなかった。自分が聞くまで、親の想いや考えが自分のやることに先行することはなかった。

「自分でやってみろ」って言われたことはたくさんある。
これも、技術屋だったからなんだろうなと。自分で経験して、失敗したり創意工夫して、試行錯誤しながら体得したことしか自分の経験として身につかないことを、身を持って知っていたんじゃないかと思います。
ただ、ヒントや考え方は教えてくれた。そのときはよくわかんないことでも、その一言は後で効いてくる一言だったりした。

そんなおかげで、頭でっかちな理論派にならずに済んでるのかな、とか思います。
身の回りにある技術を値段じゃなく本質で評価できる、技術を持つ人たちを尊敬するのも、自分がしてきた以上のその人たちの試行錯誤が作品や商品からにじみ出てるのが見えるからなのかなと思います。

しっかり1人ひとりと向き合って、その1人ひとりに自分ができる最大限のことに、心を込めて取り組む。
徒弟制度というと古くさいかもしれないけど、そのプロセスを軽視することは、本質を見失わせることになるんじゃないかなと思います。

もっといろんな人と出会っていきたいとも思うけど、これまでに出会ってくれた人たちとの過ごし方ももっと心の込もったものにしていきたい。

その人にしかないいいところ、その人にしかできないことをもっと見つけられる人になりたいし、そんな人ともっと深く付き合っていけるような、でかい人になりたい。

そんなことを考えながら、この夏を過ごしてます。

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