2011年8月15日月曜日

本「多摩 幻の鉄道―廃線跡を行く」【11年31冊目】

<本の紹介>
多摩に鉄道が誕生して既に110年。高尾駅の国産最古のレールや、幻の国鉄スワローズ球場専用の武蔵野競技場線等、多摩には鉄道遺跡が多い。廃線跡、橋梁や煉瓦構造物、古レール、ユニークな駅舎等を紹介。

<メモ>

  • 水道局砂利運搬「軽便鉄道」跡。狭山湖堤にある"何か"を利用した不思議な滑り台。
  • 武蔵野市北部の武蔵野市役所の近くに「グリーンパーク」という名の商店街がある。住居表示にも緑町があり、このあたりを歩くと「グリーン」や「みどり」といった文字が氾濫しているのに気がつく。しかし、現在、どこを探しても「グリーンパーク」という名の公園や施設を見つけることはできない。実は、戦後の一時期、この地にプロ野球の公式戦を行う本格的な野球場があった。その名を「グリーンパーク球場」といった。そして、その観客輸送のための鉄道まで存在し、武蔵野競技場前という駅があったのである。この鉄道の始発駅、三鷹駅から武蔵野競技場前駅に至る線路敷後は、大半が遊歩道として整備されて残っており、現在でもその後をほぼ完全にたどることができる。
  • グリーンパーク緑道の畑と緑道との境に立てられているコンクリート製の境界標柱には、国鉄を示す「工」のマークが刻まれていて、この道が鉄道の跡であることを物語っている。
  • 米軍住宅の跡地が現在の都立武蔵野中央公園である。
  • 下河原線の廃線跡がはっきり残っているのは、国道20号(甲州街道)以南である。下河原緑道という名の遊歩道として美しく整備され、線路跡を完全にたどることができる。スポットパーク下河原線。番場片町北裏通りとの交差部にはレールが埋め込まれている。
  • 五日市鉄道が武蔵岩井まで開通すると、勝峯山の石灰石は同鉄道により搬出され、浅野セメントの川崎工場へと送られた。拝島から先は、青梅鉄道(現・JR青梅線)、国鉄中央本線、山手線、東海道線を経由するというルートであった。しかし、1929(昭和4)年12月11日の南部鉄道(現・南部線)全通により、立川から同鉄道経由で直接川崎へ輸送することが可能となった。南部鉄道は、砂利輸送を目的としてスタートした鉄道であったが、後には五日市鉄道同様、浅野セメントの傘下に入った。
  • 御陵線の南浅川に架かっていた鉄橋の橋台や橋脚は、すべて撤去されてしまい、何も残っていないが、がっかりするのは早い。横山橋を渡り、北岸を上流方向へ川沿いにすすむと、右側に遠藤工務店という看板を掲げた家がある。ちょうどその前が御陵線の渡河地点にあたるところだが、その遠藤工務店の裏の、普通の庭先に1本、隣家との境にもう1本、高さ5mほどのコンクリート製橋脚が立っているのだ。これほど完全な姿で残っているものは他にはなく、御陵線最大の遺構といってよいだろう。
  • 奥多摩駅から、日原鍾乳洞や本仁田山、川苔山などへハイキングに向かう人々が不思議に思うのが、日原川に架かる巨大なコンクリートアーチ橋である。道路とは無関係なところにあり、鉄道橋のように見えるが、橋の上には雑草が生い茂り、使われている様子はない。その正体は、JRの奥多摩駅と小河内ダム直下の水根積卸場を結ぶ、全長6.7kmの奥多摩工業専用鉄道の橋梁なのである。
  • 小金井公園にある「江戸東京たてもの園」のビジターセンター(旧武蔵野郷土館)は、紀元2600年記念式典の会場として皇居前広場につくられた建物を移築したものである。
  • メルヘンの世界だった終点の「ユネスコ村」はすでに無く、駅跡地には、UFOのような遊技施設が鎮座していて、駅であったことをしのばせるものは何も残っていない。幸いなことに、台湾からきた527号機関車と井笠鉄道からきたダブルルーフ客車4両だけは、西武遊園地内で、「レストランぽっぽ」として再利用されており、現在もみることができる。
  • 高尾駅下り線の煉瓦アーチ橋。南浅川から取水した用水路に架かる。
  • 高尾駅の駅舎は社寺風建築で、駅舎正面の屋根の張り出した部分は車寄せであった。
  • 国立は、ドイツの学園都市ゲッチンゲンをモデルにした。国立とは、国分寺と立川の中間であることから、双方の1字ずつをとったものと考えられているが、単にそれだけではなく、自称名付け親の堤康次郎によれば、「新しい日本という国が、ここから生まれるという意気込みで名をつけた」ということである。

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