2012年1月14日土曜日

街角の煙草屋までの旅【12年004冊目】


街角の煙草屋までの旅

<本の紹介>
吉行さんが書き残したエッセイを読みたどることで「吉行淳之介の魅力」を探るシリーズ『吉行淳之介自身による吉行淳之介』第三巻。本書は一九七九年吉行さん五十五歳の時に書かれた「エア・ポケット」から、亡くなる一年前、一九九三年に書かれた「井伏さんを偲ぶ」まで六十四篇を収める。

<メモ>
・葬式は死んだ当人のためではなく、遺族や親切な友人たちのためにおこなわれる、と考えた方が良いだろう。本当の新設は当人の意志を尊重することだと思うのだが、世の中は厄介なもので、その通りにすることは不可能に近く、小規模で終わらせるのがせいぜいである。正式の遺言状をつくって、葬式を拒否しておいても、それが無視されるのが実情である。
もっとも、死んでしまったら、なにも分からなくなるわけだから、そのあとでどんな形の葬式をされても当人には無関係ということになる。「どんな葬式をされたいか」という考え方は、当人の気質の参考になるだけのことのようだ。
・私たちが飲み屋や角の八百屋まで歩いていくときでさえ、それが二度と戻って来ないことになるかもしれない旅だということに気が付いているだろうか?そのことを鋭く感じ、家から一歩外へ出る度に航海に出たという気になれば、それで人生は少しは変わるのではないだとうか?そこの街角までとか、ディエップなりニューヘイブンなり、どんなところへでも、小さな旅をするあいだに、地球の方も、天文学者さえも知らないところへ小旅行をしているのだ。
・無声映画時代に画面に若い二枚目が登場すると、弁士は「現れましたのはジョンであります」と言い、恋人役の若い女は「メリー」、悪漢は「ロバート」ということになっていた。
・一つの病気の専門医が、その病気を体験していないということには、問題がある。患者の苦痛を頭の中では理解できても、実感として分からないというのが、その問題点である。

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