砂川闘争が始まったのは1955年。本や展示で調べることはできても、当時の話を聞ける人はもう少なくなっているので貴重な機会でした。
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冒頭は立川に飛行場ができた話から。立川飛行場の完成が1922年だから、今年はちょうど100周年になるそう。飛行場をつくった当時、そこが戦時に重要拠点になるところまでは想像できただろうけど、その後の敗戦、米軍基地となり、返還後の立川のまちを形づくる大きな資産となっていくことは想像できなかったと思う。羽田空港は、立川飛行場を軍用にするため追い出された新聞社等の飛行場が必要となってつくられたものだ、という話も初めて聞いた話でした。
そして、この講座で知った砂川闘争と青木市五郎さんの話。
まず米軍基地に自分の土地を取られてしまった1人である青木さんは、1945年の敗戦後に自分の土地が米軍基地になること自体は止められないまでも、「その土地は自分が貸したものである」という賃貸借契約を結ぶために基地に1人で乗り込んだ。はじめは相手にされなかったが5回目でようやく当時の責任者と話ができ、書面を得る。この書面が、その後歴史を変えるために大いに役立つことになる。
そして1955年の砂川闘争。この闘争が始まるきっかけは米軍の朝鮮戦争で、1953年に休戦になった米軍はその休戦期間に軍備・体制を整えるべく、より大型の飛行機も着陸できるよう立川飛行場の滑走路を拡張しようとした。その計画は、立川飛行場の南北に走る滑走路のうち、南側は青梅線の線路があったため拡張できず、北側の畑をつぶす計画だった。そしてそれは、砂川村としては東西を分断され、暮らしが成り立たなくなるインパクトの大きなものだった。
そのため、砂川の住民が反対の意思を表明する反対同盟を結成、町議会もそんな住民の声を聞いて反対決議。その結果を受けて町長も反対の意思を表明する、というボトムアップでの合意形成がされていくことになった。これにより、米軍の依頼を受けた国の方針であっても測量などには町として協力しない、というスタンスで警官隊と対峙していくことになる。
そこから、「流血の記録 砂川」という50分ほどのドキュメンタリー映画を鑑賞。
砂川の人たちの一致団結した姿、「心に杭は打たれない」というスピリットに胸を打たれながらも、他国同士の戦争のために同じ日本人の警官隊と地元住民とが、戦地ではない場所でこんなにも争わなければいけないのかと、その間の「米軍の兵士は笑っていた」というナレーションも含め、敗戦国とは、戦勝国の目線とは、警官は誰を守るのか、ということを考えさせられました。
その一方で、今「歴史を受け入れてきた立川」とそれがいいことのように言われてはいるこの地域で、この当時は別のまちだったとはいえ砂川の人たちの「自分たちに降りかかる火の粉は払う」とお上の決定を団結してボイコットする様子や、警官隊を退けて「ワッショイワッショイ」とゴキゲンにはしゃいでいる様子を見て、その人たちの血が今もこの地に受け継がれているのだなと感じもしました。この地域の人たちは、なんでも「はいはい」と受け入れてきたわけではないのだよなと。
そんな「流血の記録 砂川」には出てこなかったこの時期の話として、並行して冒頭の青木さんの賃貸借契約書は、この拡張計画を中止に持っていく大きな役割を果たすことになる。「拡張」という話が出る中で、「いや、その前に貸していた現在の滑走路の土地を返せ。それも原状復帰のためコンクリートははがした状態で」と青木さんは米軍に申入れる。この申入れを聞くとなると、滑走路は拡張そのものが意味を持たなくなる。(途中の滑走路が一部なくなるのだから離着陸できないという話)
そんな話を解決する必要にも迫られ、結果としてこの揉めに揉めた測量行為は中止に追い込まれ立川飛行場の滑走路拡張も中止、フル活用できる目途のなくなった立川飛行場にいた米軍は横田基地に移動し立川飛行場は全面的に返還。
これが立川駅の近くに大きく自由に使える土地を生み、その後のファーレ立川や昭和記念公園、今のグリーンスプリングスにつながっていく、という立川史の大きな分岐点になっていった。
そして跡地の活用については、実は今とは別の案が先にあった。立川市の住民でつくった最初の計画では大きな公園のほか、大学の誘致や基地周辺で生活困窮していた人たちの住宅などにも使おうとしていたそう。ただ、それは採用されずに今の形になっていったという裏話も聞け、実際にその利用計画案も見せてもらえた。こちらが選ばれていても、今とは違った立川が出現していたのだろう。
最後に、砂川学習館周辺の砂川闘争の史跡を巡ってエピソードを聞いて、青木さんのお孫さんに当時のキーとなった滑走路内の土地も案内してもらって、講座は解散。青木さんの話で印象的だったのは、「当時砂川の全員が反対だったが、砂川闘争の間には国や東京都から土地の持ち主への切り崩しがあり、金銭取引に応じたり、闘争期間中に発生した飛行機事故に身の危険を感じて砂川を離れた人たちもいた。でもそれは、基地拡張"賛成派"ということではない。みんなが反対をしていたのだ。その中に、生活のために、家族を守るために土地を手放す決断をした人たちもいたことは理解できる。だから僕らは、そういう人たちを条件派としてお互いを尊重している」という話。
この時、やむを得ず土地を手放した人たちの中には負い目を感じていた人もいるのかもしれない。でも、日々の暮らしの中で大切にするものはそれぞれ違う人たちが、いっときでも同じ土地で仲間として暮らしたことを縁として、またこの地で笑って再会できたりするといいと思ったりもしました。
そんな感じで今回の「砂川闘争を知ろう」は、自分の暮らす立川の歴史を知るとても充実した学びの時間になりました。この講座、15人限定だけど大人気だそうで、「初参加限定」にしているのに僕は実はキャンセル待ちの3人目だったのですよね。2-3日前にようやく参加可能の連絡が来て参加できてほんとによかった。
説明してくれた島田さん、案内してくれた青木さん、スタッフのみなさん、どうもありがとうございました。