2003年5月29日木曜日

もう一つの視点

つい先日、世界の中の東京、という新たな視点を手に入れた僕。
だが、なんとなく納得いかないことがいくつかあったのでその疑問をいつか解消したいと思っていた。

そして、少し時間に余裕をつくり、銀行に行って話を聞いてきた。
餅は餅屋、蛇の道は蛇。何事も知っている人に聞くのが一番の近道だ、と思っている。
もちろん一人に聞いてそれをそのまま信じるのは危険なので、何人かの意見を総合しなくてはいけないが。

そこでわかったことがある。
どんなに日本がダメだ、と言っても、僕の生活圏は日本。
海外に行くことはあるだろうが、いつかは日本に帰ってくるつもりだ。

ならばわざわざ世界という視野を持つ必要はない、ということ。
為替の変動に左右される、どちらかと言えばリスクの方が目につく外貨預金には、少し自分に資産ができて、そこから余裕を出せるようになってからでも遅くはない、と。
もちろん金利は日本円で預金するよりいいかもしれないが、外貨にするのに手数料がかかり、もちろん戻すのにも手数料がかかるので、メインバンクにするのはただ自分の資産を減らすだけになってしまう危険もある。
日本の銀行では破綻しようが個人の資産はなんとか保険というのがあるため、確実に守られるから安全だという話を聞いたことがある。
そしてそれは外貨預金には適用されないらしい。

この前話を聞いた人は、生活圏がアメリカの人だった。
だから、$ドルで預金することを基本に考えていたし、今日本にいると言ってもいずれは向こうに帰るという前提があった。
僕はそれをそっくりそのまま自分に当てはめていたが、そういう問題ではないことがわかった。
いろいろな要素があって、その自分のおかれた状況で自分に合うものを選ばなければいけない。
僕は何も知らなかったんだな、と少し反省した。

それに加え、東京にもリスクはあるが、それを言うならNYにはテロ、中国近辺にはSARSの危険もある。
他の人の話では今の日本には1ドル150円くらいの価値しかないからいずれそうなるよ、という人もいるし、アメリカのブッシュ政権はどうやら円高ドル安の状態の方が輸出には好都合だからそっちの方向で動きそうだ、と言う人もいる。
そういういろいろなことがあり、だから先が読めない。
そしてそこがリスクであり、おもしろいと感じる人もいるのだろう。

なかなか僕には難しい問題である。
これからじっくり考えようと思った。

2003年5月26日月曜日

世界の中の東京

今日、僕は世界の中の東京、ということを感じた気がした。
と言うとよくわからないかもしれないが、確かにそうなんだ。

時刻はすでに18時をまわっていた。
ここは上智大の中。
この前来た時と違い、授業の終わった学生で溢れた構内は騒がしかった。

そんな中、僕は去年の夏に初めて出会った友達と花見以来の再会を果たした。
そして、その場を離れ、共に夕食を食べにある店に来ていた。

そこで聞いた話が、非常に興味深い話であったので、少し紹介したいと思う。

僕はすでに就職活動を終えた身であったが、もしこの場に就職活動中であり、そして志望業界が銀行・生保などの金融系の人がいたならば、僕なんかよりもっと参考になったのではないか。

みなさんは東京に住む、ということをどう考えているだろうか?

僕のような若者にとって、東京で一人暮らしをすることは一度はしてみたい夢であり、ステータスにもなりうると思う。
そして、老後になるまでは東京にいたい、というのが僕の考え方だった。

さっきまでの僕ならば。

それを悪く言う気はさらさらないが、僕が今日再認識した事実をみなさんが聞いた上で、どう思うか決めても遅くはないのではないかと思う。

今日、震度6という大きな地震があった。
僕は外に出ていたのでほとんど影響を受けなかったのだが、電車に乗っていた友達は電車が止まってしまって身動きがとれなくなったりしていたらしい。

みなさんの知っているとおり、日本は地震の多い国である。
常に大地震に襲われる可能性がありながら、僕達は十分な対応策を持たずに日々を過ごしている気がする。
日ごろの行いの良い僕(反論は一切受け付けない)などは、”大地震が起こったところで自分だけは生き残れる”という妙な自信を持っていたりもする。

では、実際にそんな大地震が起こったらどうなるか?

最近建築された建物は倒れないかもしれない。
というのも、六本木ヒルズなどは森ビルの社長である森さんの、「大地震が起きたとき逃げ出す街ではなく、逃げ込む街をつくりたい」というコンセプトに基づき設計をしているからである。

しかし、まず間違いなく、僕の今住んでるアパートはつぶれてしまうか、火事で燃え尽きてしまうだろう。
台風が来ただけでもぐらぐら揺れている築○十年のこのボロアパートが、とても大地震に耐えうるとは僕には考えられない。

そして、火事。
これは僕のボロアパートを含む木造の家に住んでいる人たちには避けては通れない災害となるであろう。
そして、その火事が引き起こすのが、爆発。
東京に大地震が起こったとき、その爆発の火種として非常に数も多く、危険なものは何か。
車である。
普段は便利かもしれないが、そんな大災害が起こったとき、車は大きな爆弾となる。
車がそこかしこで爆発をしだすと、もう僕達にはどうにもならない状況になってしまう気がする。
今なにげなく吸っている空気もこのままなはずがなく、火事や爆発などで熱せられ非常に高温になった空気の中で、僕達に何ができると言うのだろうか。

ただここまでの話は単なる過程の話であって、実際に起こったときにそうなるかはわからないし、第一大地震が起こらなければ別に僕達にはなにも関係のないこと、と言ってしまえるのかもしれない。

それでは、最近は地震が多いが、大地震の起こる確率はどのぐらいあるのだろう?

ある資料によると、大地震というのは70年を1サイクルとして起こっているらしい。
それでは、前回の大地震はいつになるのか?
みなさん知っての通り、1923年の関東大震災となる。

もしその資料があっているとしたら、すでに70年を超え80年目に入っている今、大地震が起こらない、ということはできるだろうか。
残念ながら、僕には断言することはできない。
むしろ近いうちに大地震が起こってしまうのではないか、この先20年、30年と東京はあり続けるのか、と不安になってしまう。

この予想が杞憂に終わることを祈るばかりであるが、ではそんな東京の現状を把握した上で、東京に住み続けること、メインバンクを日本の銀行にしておくことについて考えてみたい。

私見ではあるが世界の中の日本、世界の中の東京、という観点から見て、これほど先の見えない都市も少ないのではないだろうか。
いつ大地震が起こるかわからない世界でも稀に見る地震地帯に位置し、政治も混乱を極め、銀行はメガバンクと言われる4銀行全てが赤字。
政財界に癒着がはびこり景気の良くなる兆しもないまま、それでも人々はブランドバックを買いあさり、勉強すること、知性を磨くことを避けて通ろうとする。
全ての人たちがそうだ、とは言わないが世界の人たちから日本人がバカにされるのもわからなくもない気がしてくる。

海外の都市を見渡せば、地震などほとんど起こらず、東京と同じような生活のできるところはごろごろあるのではないだろうか。
もともと僕は政治や経済に興味はないが、それでも今の日本があまり良くないことくらいわかる。
それが全てとは言わないが、僕は今の日本に、というか東京には家を持つ必要はないのではないか、と感じた。

家を持つなら家族のためにも地震があっても大丈夫な場所に。
まぁそれは1大学生の僕にはまだかなり先の話になるだろうが。

そして、メインバンクを日本の銀行にしておくこと、これはどうなのだろう?
僕の場合、よく考えもしないで大学にもあって便利な郵便局を使っているのだが、メインバンクを日本の銀行にしている人も少なくないと思う。
というか、ほとんどの人がそうかもしれない。

例えば今預金している銀行が赤字を出している。
僕達に直接の影響はないかもしれない。
それでも、あまりいい気分はしない。

そんな銀行の利率が1%、そして一方世界で通用する外貨を扱う銀行の利率が5%だとする。
みなさんはどちらを選ぶのだろうか?
もちろん外貨で預金をすることには僕も多少の抵抗はある。
安定を求めるなら、無難に日本の銀行の方がいいのだろうか?
ついそう考えてしまう。

ただ、この安定という言葉、少しひっかかる。
¥エンと$ドル、果たしてどちらが安定していると言えるのだろうか?
僕は必ずしも¥が安定しているとは言えないような気がする。
こんな不安定な情勢の中で、世界的な基準がどちらか、という点から言って僕は$に1票入れたいと思う。
もしかしたら反論したい方もいるかもしれない。
そんな人はどうぞ教えてください。メールお待ちしています。

いつ大地震の起こるかわからない日本でのみ使われている¥がどこまで安定していると言えるのか?
もしそのようなことが起きた場合、¥の価値というものはどれ程下がってしまうものなのか?
今まですごく価値のあった札束が、わずか2,3秒で紙切れ同然になったりすることは考えられるのか?

僕はみなさんに少し考えた方がいいのではないか、と言っておきたい。
世界は広く、可能性は無限。
東京に固執して自分の人生を捨てるようなことになったら、それはすごく悲しいことだと思う。

さて、そろそろ時間もなくなってきたので僕は自分の仕事に戻るけど、みなさんはどうする?
願わくば、この先の人生を自分がどう過ごすか少し考えて欲しい。
そして、一度しかない人生を共に楽しもう。

じゃ、また。

2003年5月23日金曜日

誕生日

なんかひさびさだね、メールすんの。すいません!
なんかまとまった時間がなくて、ついつい「今度でいっか」ってなっちゃってたんだよね。

ここんとこ天気の良くない日が続いてるけど、みんなはいかがお過ごしかな?
SARS日本上陸か、なんてことも言われだしてるけどまぁまだまだ大丈夫でしょ。もしも感染したりしたら、もしか感染源俺かもしんないから、そこんとこよろしくぅ。ちょうど俺が京都行ってるときに京都にいたらしいじゃん?感染源。まぁ大丈夫だとは思うけど・・・。

んでそんなこんなで、ここんとこいろいろありすぎてバタバタしてたんで軽く話していこうと思います(てっかこれ話すのって誰のためって俺のためが一番なんだけどね。記録として残しておきたいってのがもともとの始まりだからv(^o^ ))。

まず9日。就活もまわるのは終えて、あとは結果待って自分がお世話になる会社決めるだけって状態んなった。手ごたえ的には「ぜってぇ内定だわ(-_☆)V」てわけじゃなかったけど、「こりゃダメだ(+。+)」てわけでもなかった。ま、運が良けりゃ内定なんじゃねぇの?くらいな感じで。

んで10日。この日は待ちに待った(かなりプレッシャー他に苦しめられたけど)パーティー。
「中大を元気にする会」のイベントの一つとしてやったんだけど、ぶっちゃけた話幹事の俺とYの二人でやったようなもんだったね。
当日は(男多かったけど)80~90くらいの人数が集まったんだよね。
社会人から、大学院生、もちろん大学生も専門生なんかもいたんじゃないかな?
俺的には同じ高校のダチ呼んでて、そいつらと何年か振りに会えたのが懐かしかった。
あとは、俺の呼びかけに応えてくれた先輩方も普段はあんまり会う機会がないからいい再会の場になったよね。よかよか。
ほんとは色んな人に声かけてたし、もっと人数集めたかったんだけど、まぁ俺とタメな奴らはみんな就活中だったりで忙しいみたいで。
でも、そーいう人たちが「今回は残念ながら行けないけど、またやるときはぜひ誘ってよ!」って言ってくれるのはうれしかった。
社交辞令かもしんなかったけどね。

このパーティーの理想は合同同窓会なんだ。
地元の奴らから、同じ中学、高校、大学の奴らまで、大学の中でも同じ学科であったりサークルであったりってそれぞれが持ついろんなコミュニティーを一気にかき集めて同窓会やっちまえ!みたいなさ。
なかなか揃って集まれる機会も少ないんだし、そういう機会がただ「懐かしいね~」っていうだけで終わっちゃうのもなんか寂しいかなって。
どーせなら色んな人と交流する中で旧交を温めたりだとか、交流のない分野の人から話を聞いて新たに自分の世界広げるだとかってのが一気にできたらって思ったんだよね。
んでそんときに間に入って紹介できる人がいれば仲良くもなりやすいっしょ。酒の勢いも追い風になってくれるだろうしさ。
俺と同じ中学の奴らと同じ高校の奴らがここで仲良くなって、普通に一緒につるむようになったら、この飲み会やって良かったなって自分でも感じれるんじゃないかなって思う。
ただ・・・開催すんのすっげぇ疲れるんで、半年に1回くらいんなっちゃうかなぁ。
ま、またどっかでやろうとは思ってるよ。
詳しくは写真館見てくださいな。

続いて16日は誕生日でした。
つっても何もしてないんすけど・・・┐(´ー`)┌免許の更新したくらいかな。
いやぁ、しけた誕生日だったわ。
あ、そうそう自分のお世話になる会社を決定して、他の内定もらってる会社の辞退が完了したのもこの日だったね。
大げさかもだけど、「自分の一生を決定した誕生日」ってことになんのかな。

んで17日はROWのコンサート見に行ってきた。
ROW(Rondalla On Wheels)ってのは、フィリピンの車椅子楽団のことなんだけど、知ってる?
知らないよね?てか知ってるわけないんだけど、だから俺がここで紹介しておきたいと思う。
すごくいいことしてると思うから、ぜひみんなにも知って欲しいんだ。

Rondalla(ロンダリア)ってのは、フィリピン特有の弦楽合奏団を意味するらしい。
19世紀後半、フィリピンではスペイン統治時代末期に、植民地の効果的統合目的で始まったんだけど、同時に娯楽や社会的交流手段としても、フィリピンの社会に普及していったんだってさ。んでアメリカ植民地時代に入ると急速に広まり、フィリピン独特の音楽形態の一つとなるに至ったそうな。
んでここで演奏されている楽器が主に2つあって、それがBANDURIA(バンドゥリア)とOCTAVINA(オクタヴィーナ)。
バンドゥリアはハートを逆さにしたような形で、フィンガーボードとチューニングボードがついた14弦楽器だそうだ。14本の弦は6つのグループに分かれてて、この弦をプレクトラム(ツメ)で弾く楽器。
オクタヴィーナはギターのような形をした14弦楽器で、弦のグループはバンドゥリアに似てるけど、バンドゥリアよりも1オクターブ低く調弦されてっから幅広い音が出んだってさ。
まぁ、アコギみたいの想像してもらえれば問題ないね。

で、on Wheelsってのは分かるかな?直訳すると「車椅子の」ってことなんだけど、身体障害を持つ貧困家庭の子供による活動ってことなんだ。

俺がこれを知ったのは、「ふれんどしっぷASIA」っていうNGOでROWの受け入れみたいなことやってる先輩Kがいて、その人に誘われたのがきっかけだった。
「Kiji、俺の団体で今度コンサートやるから見に来てよ。」って。
まぁ予定もなかったしちょっと興味あったから行ってみたってのが正直なとこかな。

んで演奏聞いてみたら、すごくよかった。
これは実際に聞かせてあげらんないのが残念だけど、聞いた人にしかわかんないと思うからあえて言葉にはしないでおくよ。
「本当に障害持った人たちなの?」って思った。

あとはね、曲目がちょっと気になったね。
多分わざとだと思うけど、自然ってのを意識したものばっかだった。
日本の歌はさ、(これは俺の思い込みかもしんないけど)恋愛ものとかって多いじゃん?
でもさ、ここで演奏されていた曲は、”田植え歌”、”夜明け”、”グリーンスリーブズ”とか、日本の曲だと”花”、”浜辺の歌”みたいなものだったんだ。
これが俺の印象に強く残った。
”大地と共に生きる”っていうことが、すごく大事にされてるっていうか。
「自分は地球っていう星で生きているみんなの中の一人なんだ」っていうことを認識させられた。

あと印象に残ったのは、その一人が言ってた言葉の中に、
「僕たちをあわれまないで下さい。普通に接して下さい。」
ていうものがあったこと。社会ん中でしっかり生きていこうっていう意思を感じた。
んで俺は、正直強いなって思った。
俺と年もあんま変わんないのに。障害持ってんのに。今まですごく傷ついたこともあったろうに、そしてこれからもそういう風に接してくる人もいるだろうと思うのに、なんだってこの人たちはこんなに前向きに生きてんだろう!って。
演奏だってすばらしいものがあるし、なにより精神的に俺なんか歯が立たないんじゃないかって。
もし俺がその立場にいたら「もういいよぉ・・・」って人生投げ出しちゃうかもしんないと思うと、なおさらだった。

~大切なのは「何ができないか」ではなく、「何ができるか」である~

四ツ谷にある上智の聖イグナチオ教会ってとこでやったんだけど、結構人来てたなぁ~。
キャパ300くらいって言ってたから200弱くらい来てたんじゃない?
俺らが知らないとこにもすげぇ奴らっていっぱいいるんだぜ?俺らも負けてらんねぇな。

んでその後、新宿でBreakersの先輩達と飲んだ。
俺誕生日ってことでプレゼントもらっちゃった~☆どぉもありがとね!

19日、学科のダチが俺ら(5月生まれ)の誕生会を開いてくれた。
まぁ俺らはつるんでる人数も多いし毎月やってることなんだけどね。
それでも、自分が祝ってもらう立場で参加するときはうれしいもんだよね、改めてみんなありがとう!

それにしてもこの日は飲んだなぁ~、あれがいけねんだよ!ウイスキーが!
あれで完全にスイッチ入らしてもらったもんな。
ごめん途中でトイレ行って。
無理だった。けどちっと自分にショックだった。
まぁ、帰ってきて全部空けたんだから結果オーライってことで。
これからもよろしくやってこうぜ!!!
てめぇら自分の誕生日んときは覚悟しとけYO!ぜってぇツブします♪

っとまぁかいつまむとこんな感じで過ごしてました。
誕生日を祝ってくれた人たち、ほんとにありがとう!これからもよろしくお願いします。
ほんとはもっといろいろあるんだけどこれ以上長くなると読むのメンドイだろうし・・・
てことで今回はこの辺で、GOD BLESS THE FREAKS!!!

2003年5月9日金曜日

新浦安

今日で就活もとりあえず終わりかな。
あとは結果待って自分のお世話になるとこを決めるだけ、て感じ。

んで、とりあえず一段落したってことで就活の帰りに新浦安(東京ディズニーランドのある舞浜って駅の隣駅)に寄ってきた。
なんで寄ったかっていうと、まぁ「なんとなく」なんだけど。

昔、もう14年も前になるけど、ここに住んでたんだよね。
もう記憶あいまいになってっけど。

ザミーが自分のサイトでちょっと前に言ってたけど、引越す前と引っ越した後ってのは空間的なつながりがない。
そこで遊んでた奴らとも連絡も取らなくなっちゃうことが多いから、本当に昔俺はそこに住んでたのか疑問に感じることもあるんだよね。

まぁ俺の場合はそこまで違う世界みたいに感じることも少ないんだけど・・・でも今日は久々に街歩いてて嬉しくなった。
こういう感じって今まであんま味わったことなかったな。
なんか新しい街を歩くときのワクワク感とはちょっと違って、思い出にふけりながら、
そこを歩いてる人たちと同じ道を歩いてんだけど、流れてる時間は俺だけ違う、みたいな。
わかるかな?
俺の周り、俺の見てる景色はそこにあるそのままじゃなくて、やっぱり「昔はこうだったけど、今はこうなってんだぁ」みたいんなってんだよね。

でもすげぇなぁ、ほんと。
京都に行ったときも感じたんだけど、記憶って頭に残るもんってのも確かにあるもんだけど、場所に宿るんだなぁってはっきり思った。

14年も前に住んでた場所でも、駅からの道は覚えてた(そんなに駅に行った記憶はなかったんだけど)。
その当時あったコンビ二を見つけたとき、一気に記憶がよみがえってきた。
「そういやここでビックリマンとかガンダムとか買ってたんだよなぁ~。」「あの頃はよく集めてたよなぁ。」「んじゃこの奥がマリーナイースト21か。」「変わってねぇ~。」「公園とかあったよなぁ。」「サッカー初めてやったのもここだったっけ。」「窓ガラスに囲まれたホールみたいのが・・・あぁ~そうそうこれこれ!」「この辺にチャリ停めてたっけ。」「確かこのマンションに誰か住んでたよな。」「この道も全然変わってねぇなぁ。」「こっちは開発されてなかったんだよなぁ。」「あ、ここ俺が怪我した場所だ。」

なんて思いながら、そこから昔の俺んちのあるマンション(社宅)に向かった。
「あ~そうそうこんな道だった!」「そうだ近くにバス停あったかも。」「駐車場の前の・・・あそこかな?俺の住んでたとこって。」「このマンションも14年経っても変わんねんだなぁ。」「そうそうこんな公園だった!」「ここに動物の奴が・・・やっぱあったぁ!」「この坂こんなちっちゃかったっけ。もっと大きかった気がしたんだけどなぁ~。」「このテニスコートは・・・あったかも。使わなかったからわかんないや。」「そうそうこれこれ、これに乗って遊んでたなぁ。」「あの頃は新しかったんだけどなぁ・・・」「この道はこんな感じだったね。」「あそこにあいつが住んでたんだよ。」「こっちは開発されてなかったんだけどなぁ。」「この道はここまではできてたな。」「いや~あんときのまんまじゃん。」「テトラポッドみたいな遊具あったなぁ、見るまで思い出せなかったけど」「木登りして枝折ったっけ。」「ミニ四駆とかもつくったよなぁ。」「ここ超えてこっちは空き地だったんだけどなぁ、んでちょっと行くと海が・・・」「あれ?海なくなってんじゃん。」「しかも私有地・・・入れない。」「カエルとかも取ったよなぁ。」「道は昔のままなんだな。」「あ、中学校が出来てら。」「小学校はどうなってっかな。」「あった~!」「うわ懐かし~。」「我が母校!」「こっちにはプール・・・お、あったあった。」「ここにでっかいネットあったんだけどなぁ。」「あの小山はなかったっぽいな。」「へ~あんときは小さい小学校だったのになぁ。」「あそこでドッジボールとかしてたんだよなぁ。」「あ、この玄関なつかし~。」「そういや雪降ったときとかあったよなぁ。」「この2階のこの教室でガリバー作ったんだよね。」「もう知ってる先生とかいないんだろうなぁ。」「ここの1期生ですって職員室行ってみよっかな。」「あ、この校門はあんときのままだ。」「こっちの階段はあんま使わなかったんだよなぁ。」「裏にうさぎ小屋があったっけ。」「んであっちに幼稚園・・・と。」「へ~この道もあんときのままかぁ。」

なんてすっげぇ思い出にふけりながら歩いてた。一緒に遊んでた友達の名前ももう思い出せなくなってたのに、ここに来たらどんどん出てきて、なんかここにいたら会えるんじゃないか、なんて考えちゃったよ。

いや~、絶対また来よ!
多分今住んでる場所も、地元もこうやって思い出になっていくのかな。