2011年10月23日日曜日

本「マンガとミュージアムが出会うとき」【11年14冊目】

<本の紹介>
国立メディア芸術総合センター(仮称)構想にみられるように、マンガ・アニメに関する施設の設立が相次いでいる。いっぽうで、どのように展示すればよいか?という方法論は、いまだ模索の段階にある。本書は、マンガをミュージアム空間に置きなおすことで浮き彫りとなるメディアとしてのマンガの性質や、マンガを取り入れることで拓かれるミュージアムの可能性について、現場での取り組みや、ミュゼオロジーの視点をもとに考察する。

<メモ>

  • ルーブル美術館やメトロポリタン美術館が美術の「殿堂」足り得るのは、そこにしかない貴重な美術品が、きちんと系統だてて収蔵され、展示されているからにほかならない。実物がそこでしか見られないということもさることながら、人類が生み出してきた「美」の歴史的系譜の上に個々の作品が位置づけられ、目の前の作品がどんな「美」をふまえて生み出されたのか、また、ここからどんな新たな「美」が生まれたのか、展示された作品の向こう側に壮大な時間・空間を感じさせてくれるのは、そこが古今の「美」を集約した「殿堂」であるからにほかならない。
  • 膨大な量と多彩な内容、町中どこででもマンガにふれることができ、およそマンガに描かれていないテーマやモチーフはないと思えるほど、老若男女ありとあらゆる年代・性別や趣味嗜好に対応したマンガが生み出されているこの圧倒的なボリュームこそが、マンガの特性なのではないだろうか。
  • 銀行へ行けば、キャッシュディスペンサーの画面で女子行員のマンガがおじぎをする。小学校の図工の時間で生徒に絵を描かせると、人物の額に汗を描いたり吹き出しでセリフを書いたり「絵画」でなく「マンガ」を描いてしまう…。
  • 服を体に合わせるのではなく、体を服に合わせていただいた。
  • 現在は美術館に単体で展示され、鑑賞されている美術品が、かつてある建物の一室を飾る装飾品であり、その部屋の内装と合わせてこそ美を発揮していたものであったこと。さらには、その部屋で来客をあまり儀式張らずにもてなしたいと建物の持ち主が望み、その美術品を作家に発注する際にもその意向が反映されたこと。そういった事柄が、作品のそれ自身の純粋な美や、作家の内的な動機のみを追求していると見えなくなっていく。
  • ドラえもんの4つの魅力。
    • ドラえもんのパーソナリティ…ドラえもんの豊かな表情
    • ひみつ道具…ドラえもんの人気を不動のものにした数々のアイデア
    • ひみつ道具が作り出す不思議な空間…ドラえもんのSF的側面
    • 登場人物たちのドラマ…人間ドラマとしての「ドラえもん」
  • ミュージアムとは、作品の「アウラ」を強調し、強化する空間である。そこでは芸術は、その一回性―たったひとつのオリジナルであり、複製不可能であること―によってこそ、価値を与えられている。作品をガラスケースにいれ、触ることを禁じ、そこにだけ証明を当て、そして作品と作者を賞賛する、ミュージアムとはそのような場所だ。当然、訪れる来館者も無意識のうちに、この「アウラ」に対する信奉を持っている。そしてたとえばある絵が唯一無二のオリジナルでなかったり、なんらかの複製だったりすることを知って、がっかりするのである。このように「アウラ」はミュージアムに長らく棲み続けておりおり、この空間に足を踏み入れる人は「アウラ」の幽霊にいつのまにか心を奪われる。
  • 来館者がジブリを知っており、かつ好きであり、自分で物語を想像できることを前提とした展示。
  • 世論は、一方では「日本が誇る」マンガ文化を賞賛しつつ、他方ではマンガの読みすぎであの首相は漢字が読めないだとか、アニメの見すぎが性犯罪を引き起こす、などという。
  • 子供向け原寸サイズにすると、子供たちははしゃいで遊びまわり、それを見ている大人は勉強できる、という二重構造ができあがる。空間を使う展示は展示室で必要なスペースや予算との対費用効果を考慮する必要はあるが、いちばん迫力がある。

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