2014年7月31日木曜日

多摩川について

■特徴

▼全長

  • 多摩川の全長は138km。鶴見川は43km。
  • 最上部の小菅村から河口部の川崎市まで含めると、流域人口は、なんと540万人という途方もない数になる。日本で一番人口の多い東京都と、二番目に多い神奈川県の県境になる街の川。
  • 多摩川の水は、都市の地上を地下を縦横無尽に流れ、洗濯機の中や、トイレの貯水槽、人間の体の内部を通り抜け、再び川に戻ってくる。道行く人々の体の一部はこの川の水で形作られているし、この川の水の一部はかつて道行く人々の体の中を流れていた。母なる川。
  • 多摩川の最大の特徴は、何と言っても都市生活に深く関わっている川ということだ。1997年の建設省(現・国土交通省)河川現況調査によれば、流域人口は350人余りで、利根川、淀川、荒川に次いで全国4位、流域人口密度は1平方キロあたり2827人で、鶴見川、荒川に次いで全国3位。釣りやバーベキュー、散歩、花火大会などで遊びにくる人は、1年間にのべ2000万人で、全国1位。この数字から見ても、多摩川は、日本一多くの人に親しまれている川だと言える。
  • 全長138キロ。多摩川は、山梨県塩山(現・甲州市)の笠取山に源を発する急流の中規模河川。源流~奥多摩湖~青梅まで。石灰岩質の山々を削って、V字谷を形作る。中流部は、青梅の扇の要にして広がる扇状地の南縁に沿って、立川、府中、調布、狛江、世田谷と流れる。下流部は、大田区田園調布にある調布取水堰からで、潮の満ち干の影響を受けながらゆるやかに流れ、羽田空港の脇で東京湾に注ぐ。

▼湧水

  • 水質浄化のためにまず必要なのは、川に水を取り戻すことだろう。川の水を増やすため、よく耳にするのは「緑のダム」である森を守るという方法だ。森は、雨水を受けとめ、地中にしみこませるクッションだ。しみこんだ水は、山の地中に貯えられてから、湧き水となって川に注ぐ。おかげで雨が降っていない時にも、川の水量が保たれる。多摩川が有する「緑のダム」は、源流部一帯に広がる「東京水道水道林」と名づけられた区域だ。
  • この区域の森は、東京都の水道局が管理しており、多摩川の水を守るために保護されている。面積は2万ヘクタールにおよび、羽村堰より上流の流域面積の半分ほどを占める広大な森林だ。多摩川の水源林は、劇的な変化の歴史を持っている。私がそれをまざまざと実感したのは、山梨県の笠取山にある多摩川の源流地点を目指して、水源林を歩いていた時のことだった。
  • 源流地点まで、あと数百mというカラマツ林の中、一枚の案内板が立っていた。そこには、大正時代末期に、同じ場所で写されたモノクロ写真が掲示されていた。私は目を疑った。写真に写ったこの場所には、木が一本も生えていない。多摩川の水源林は、かつてはげ山だったのだ。
  • 東京府は1893年に、当時神奈川の一部だった多摩川の水源地帯、北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡の3群を東京府に編入。川の水を守るために、県境まで動かして、水源林経営に乗り出した。まず取り組まれたのは、はげ山に木を植えること。これは大きな効果を上げ、多摩川の土砂災害は収まっていった。
  • 多摩川流域で、湧水が多い場所は、中流域の左岸、東京側だ。「ハケ」と呼ばれる河岸段丘の崖があり、崖の下が湧水のポイントになっている。中でも、小金井から三鷹、調布を通って世田谷区まで全長18kmに渡って続くハケは、国分寺崖線と呼ばれており、50ヶ所もの湧水がある。

▼砂利

  • 古い時代の多摩川が運搬してきた砂利は、岡砂利と呼ばれた。岡砂利の採取が始まると、多摩川沿いの街では、川に沿っていくつもの巨大な砂利穴が見られるようになった。現在、府中市にある多摩川競艇場も、もともとはこの巨大な砂利穴の一つを利用して作られたものだそうだ。
  • 第二次世界大戦の東京大空襲の時にも多摩川の砂利は、戦後、焼け野原となった後の東京の復興に使われた。震災と戦争、二度に渡る壊滅的な打撃を受けた東京を再び続く直したのは、多摩川だったのだ。

▼堰

  • 調布堰の上流側と下流側とでは、水面の高さが2~3メートル違う。この段差は、たとえ魚がジャンプしたとしても、越えられるものではない。

▼堤

  • 多摩川溝ノ口築堤(1703年)の際には、水神の怒りを鎮め、洪水を未然に防ぐよすがとして2人の「人柱」が埋められた。

▼河口

  • 多摩川右岸の河口原点は多摩運河の南側の私有地の中。
  • 汽水域は、多くの人が海水と川の水が混じっている場所としてイメージしているが、実際に水中に潜ってみると、海水と淡水はほとんど混じらず、比重の関係で上下に重なっている。汽水域は混じる所ではなく、海と川が重なっている場所。
  • ちなみに海から川を目指す魚や小動物は、すぐに川に入ることはできない。浸透圧の違いから、身体の体積が急変して死んでしまう。したがって真水に堪える皮膚を、わずかに海水と真水が混じるユラユラ帯を使って馴らし、作らなければならない。

▼河川敷・ガサガサ

  • 河川敷には建築物を造ってはならぬという法律があり、たいていは公共の「縁地」ばかりが造成される。ホームレスたちの「家」はむろん違法建築だが、今のところお目こぼしに預かっている。
  • ガサガサは、川の中で実に多くの役割を担っている。産卵床であり、稚魚たちの生活場であり、寝床だったり餌場だったり、こういう怪しい水際をきれいに整理整頓してしまうと、川の中の生き物すべてが単純化してしまうのは残念なこと。水の中の生き物が、なぜそんなにガサガサが好きかというと、
    • 水の流れが、吸収されて穏やかになっている。
    • 鳥に襲われそうになった時に逃げ込むことができる。
    • ガサガサ内の水草や柔らかい茎が産卵床となっている。
    • 生まれたての小魚が育つ好条件が整っている。
    • ナマズやウナギの餌がいっぱい育つ。
    • 夜行性の魚たちの寝床にもなる。

▼生き物

  • アゴヒゲアザラシのタマちゃんが2002年の8月、丸子橋に出た。
  • 多摩川のキジはほとんど養殖したものを放したもの。キジのおかげでキツネも増えた。是政橋でも巣穴が確認されている。
  • イタチ似の足跡の主はイタチではなく、ドブネズミが小走りした時に付く足跡。小走りした時だけがイタチ似の足跡で、それ以上に早く走った時やのんびり歩いた時は、まったく違う足跡になる。ちなみにゆっくりだとカカトが付いて、ダッシュした時は指先だけになる(いずれも後ろ足)。
  • ドブネズミの餌はヒマワリの種でもピーナッツでもいけるが、一番入るのは"とんがりコーンの焼きとうもろこし味"。しかもとんがりコーンは相手選ばず効く。
  • ネズミを大きく分けると、野ネズミと家ネズミの2つに分かれる。家ネズミというのは、屋根裏をゴソゴソ走り回ったり、ビルの配線をガリガリかじったりする"クマネズミ"、下水や繁華街の植え込みに穴を掘って暮らしている"ドブネズミ"、それと、米びつを荒らしたりタンスの服に大穴を開けたりする"ハツカネズミ"、この3種類でまとまる。野ネズミとは、それ以外のネズミをそう呼ぶ。
  • 多摩川にはフクロウがシベリアから二種渡ってくる。
  • アユは大変に知名度の高い川魚。アユは日本中どこに行っても"アユ"で通じる共通語であり、これは古くから水産価値の高い物産として、各地に流通していたおかげにほかならない。逆に水産価値のない魚ほど、地方名のまま呼ばれていたりする。メダカなどはまったく流通しなかったせいか、地方によって呼び名はことごとく変わり、日本のすべての呼び名を集めると5000以上にもなるらしい。共通語になったのは、"めだかの学校"で歌われるようになってからのことだそうだ。
  • これまでの多摩川の目標は、『アユが上る川』でしたが、これからの目標は『アユと泳げる川』だと思います。目標を実現するため残された課題は、私たち人間が安心して泳げる水質を取り戻すことだ。
  • 一般に、生き物の血縁を調べる方法として良く知られているのは、DNA鑑定だ。たとえばメダカやイワナの場合は、それぞれの地域や水系ごとに、遺伝的な特質を持った地域個体群がある。つまり、ある1匹のメダカの遺伝子を調べれば、どの地域出身のメダカなのかを、ある程度推定することができる。しかし、アユの場合、遺伝子から出身地を推定するのは難しい。遺伝子を調べてわかるのは、琵琶湖出身のアユか、南西諸島出身のアユ(リュウキュウアユ)か、それ以外のアユかという程度だ。
  • 昭和30年代前半、大工仕事1日の日当が800円ほどだった当時で、アユの売値が1匹50円。一晩の漁で20匹ほど捕れたというから、1000円になる。子どもの稼ぎとしては、相当なものだった。この頃の多摩川は、水泳場としても知られており、休みの日には、家族連れでにぎわった。レジャー客たちでにぎわう場所で投網を打つと、よく魚が捕れた。人々が足で川底をかき回すので、カワムシや有機物が舞い上がり、それを食べる魚が集まってくるからだ。
  • 多摩川中流で川底の石を拾い歩く。探したのは、アユの「ハミ跡」だ。アユは、細かいギザギザのついた歯で、川底の石についた藻類をこそげとって食べる。「ハミ跡」とは、この時に残される、アユ独特の歯形のこと。その数や大きさを見れば、そこに暮らすアユの密度や大きさを推測できる。
  • 天然遡上アユの数は、年による差が大きい。1990年代以降、多い年だと130万匹、少ない年だと16万匹ほどだ。一方、放流アユは、東京都と川崎市の漁協で、年間およそ130万~140万尾。つまり多摩川では毎年、天然アユを上回る数のアユが放流されており、その数の開きは年によっては8倍もある。
  • アユは一生の中で海と川とを行き来する通し回遊魚だ。夏の間、川底の石に付着した藻類を食べて育ったアユは、秋に川の中流で産卵して一生を終える。卵は2週間ほどで孵化。生まれたての小魚は、流れに乗って海に下る。冬の間は海で動物プランクトンを食べて大きくなり、翌年の初夏に再び川に上る。
  • 桜が散り、新緑が萌える5月。調布取水堰の直下の水面が、小魚の背中で埋め尽くされている。東京湾から上ってきた天然遡上のアユの稚魚だ。堰の水の落ち口では、弾き出されるパチンコ玉のように、次々とジャンプが続いている。1秒間に何十匹が跳ねているだろうか。とにかくものすごい数とスピード感。銀色の体が光っては水中に没し、凝視していると目がチカチカしてくる。1年間に100万匹も上ってくるという数の多さを実感する。
  • 4月上旬、春風を感じながら川沿いの道を行く。探していたのは、マルタの産卵群だ。マルタが産卵する場所は、東急田園都市線の二子玉川駅付近(河口から18キロ)から、調布市の二ヶ領上河原堰(河口から26キロ)まで8キロほどの区間、川の中流部だ。中流部の川の流れは、浅くて流れの速い瀬と、深くて流れのゆるやかな淵との連続で形作られている。マルタは、瀬から瀬へ群れ単位で移動しながら、川底の砂利の間に卵を産み付けていくのだ。

▼川遊び

  • 野遊びに興じていろいろな美しい川も見てきたが、年々悪くなる山間の清流で心を痛めるよりも、年々良くなる街なかのドブ川の方が、遊んでいてはるかに楽しいもの。
  • ドブ川で魚と遊ぶことだってアウトドアに変わりはあるまい。
  • 行政も市民も、まだまだ川を知らない。たとえば、私が取材に入った段階で、多摩川のアユの産卵を見たことがあると言っていたのは、中本賢さん、ただ1人だ。多摩川の生き物が、どこでどんな暮らしを送っているのか、分からないまま川のあるべき姿が語られ、整備事業が進んでいくというのは、やはりおかしい。

▼仕掛け

  • 数日寝かせて回収するのだが、とにかく何が入っているのか、仕掛けを上げるときは何度やってもドキドキしてくる。エビ、カニ、ドジョウにオタマジャクシ、同じ仕掛けでも場所が変われば入るものも変わるし、季節で魚の大きさや数も変わったりする。こういう些細な違いや発見が、実は川遊びで一番大きな楽しみでもある。

▼自然保護市民活動の発祥

  • 多摩川は、全国の自然保護市民運動の発祥の地だと言われている。それまでの日本の自然保護運動は、絶滅に瀕した希少種を保護するために、研究者たちが中心となって繰り広げるものだった。しかし、多摩川では、専門知識を持たない市民が、身近な自然の大切さを訴えた。これは今日の里山保全運動などにつながるもので、その後の時代を作った運動のスタイルだ。

■多摩川の見所

▼四季

  • 春から初夏にかけては断然、草花がおもしろい。
  • 夏から秋口までは虫と魚が面白くなって、
  • 秋には森。
  • 哺乳類や鳥が簡単に見られるのは冬が一番。

▼兵庫島

  • 由良兵庫助(新田義興(新田義貞の息子))の亡骸が流れ着いた場所が兵庫島という公園になっている。

▼菅の渡船場跡

  • 昭和48年まで現役だった多摩川最後の公の渡し場で、引退した赤い屋根の伝馬船が桟橋代わりに舫(もや)ってある。対岸の京王閣競輪場の開催日には、今でも「渡し」が行われている。ギャンブラーはここから颯爽と出陣する。

▼多摩川八景

  • 牛群地形は多摩大橋下流の右岸に見られる。JR八高線の下でも見れる。

▼釜の淵

  • 釜の淵は青梅の市民プールだったが、水死者が出てからいっさい遊泳禁止となった。行政の責任逃れのご法度によって故郷の川で泳ぐ愉快と、抱かれるべきその思い出を失ってしまった。

▼拝島水道橋

  • 橋長670m、多摩川に架かる橋では最も長い。
  • 第2位は新二子橋、第3位は拝島橋。
■多摩川あれこれ
  • 「多摩川」の最初の一滴が流れおちる「水干(みずひ)」があり多摩川の水源といわれるのは山梨県と埼玉県の境、「笠取山(かさとりやま)」です。水干には「多摩川源頭 東京湾まで138km」と書かれた標識があります。
  • 「投げ渡し堰」で用水に水を横取りされた多摩川の、何と流れの弱々しいことよ。私たちの飲み水のために必要とはいえ、少しばかり心が痛む。
  • 多摩川やその支流の秋川は、水質、水勢、流量ともにアユの生育に最適で、村々では上質のアユを多摩川の名産品として江戸幕府に献上していました。こうしたアユを「御用鮎」「献上鮎」などと呼んでいました。特に多摩川中流域のアユは姿形が美しく、味もよかったそうです。多摩川の水質汚染で一度は姿を消してしまいましたが、近年では清流となった川に戻ってきています。いつまでも鮎が棲みつくきれいな多摩川にしていきたいですね。
  • 多摩川は、日本で三番目に河床勾配がきつい川なんです。だから、川の流れが非常に速い。それが、多摩川が死の川から復活できた、ひとつの要因でもあります。流れが速いので、ゴミが捨てられてもすぐに下流に流れていく。だから、どんなに汚されても、ちょっときれいにしたら下流まできれいになる。反対にちょっと汚されたら、上から下まで一気に汚れてしまう。それが多摩川の特性です。
  • 多摩川は、昔は猛烈に冷たい川でした。中流域でもほとんど20℃くらいしかなかった。いまでも奥多摩の駅前の水温は真夏でも14℃です。イワナが棲めるような水温です。かつては、それが川崎まで流れてくるのに1日かからなかった。ダムがないから水がどんどん流れてくる。つまり、あたたまるタイミングがない。非常に水温が低い川だったんです。それがダムや堰ができた今、水温計を見たらほぼ倍、30℃を平気で超えている。
  • 今多摩川には冬になると大鷹やハヤブサが来る。でもたとえ来なくなっても、誰も困らない。何か役に立つわけではないですから。魚も同じです。その結果、多摩川は荒れて、ドブ川になっちゃった経緯がある。それでやっと少しコストをかけて、やっとのことで、今多摩川がよみがえったわけですよね。またコストを削減すれば、いつ元の状態に戻るかわからない。もっと政治的に考えてもらわないと困ります、草の根の活動では限度があります。
  • ある寒い日に多摩川の川辺に調査に出かけたら、アミメニシキヘビが凍死寸前になっていた。
  • 多摩川付近のお店に卸すくらいに鮎が食べられる状態になり、この話を多摩区長にしたところ、川崎市長も試食され、「多摩区名物・多摩川鮎として売り出そう!」と言ってくれました。さっそく地元の市民イベントで鮎の塩焼きを出して、その美味しさに人々は驚いていました。
  • 多摩川で放流しているのは漁協の対象魚だけ、鮎に鯉に鮒、ウナギ。そんなものしか放流していない。にもかかわらず、「死の川」と呼ばれた多摩川に、実際に入って調査をすると50種類ほどの魚が棲んでいる。みんなが思っているより、魚はずっとしたたかに命をつないでいるのです。
  • そして人間が飲んだりするほかは、台所で使って捨てられたりした汚れた水が、みんな多摩川に返ってくる。多摩川から取った以上の、下水処理水が返ってくるということなのです。ほかの川は多摩川のように循環的に使っているわけではありません。発電に使われたり、農業用水として使われたりしてもいるので、畑に使った水は植物が吸水し、川にそれほど戻ってこない。多摩川がどうして循環式の河川になっているのかというと、多摩川流域の人口が多いからです。およそ460万人が多摩川流域だけで生活しています。
  • 「中野島」もそう。中野島にももう一本支流があって、調布の染地に流れていた。そのときに調布の上布田と下布田が分断されたのでした。いま、多摩川べりにはグラウンドがたくさんできています。そこは本来、洪水時期に水を溜め込む場所だった。それなのに無理やり盛り上げて平らにしたら、あふれた川の水は行き場をなくして護岸を削っていくに違いありません。
  • 多摩川流域の陸地の部分、いまの住宅地になっている箇所に、川にちなんだ地名がものすごくたくさんあるのに気づきます。私が住んでいる生田のそばにある「土渕」。その場所は、昔は多摩川が流れていた。崖があるから、上から砂がジャンジャン落ちてくる。その土だけだから土渕というのです。一方、「宿河原」。その昔、江戸の手前には宿があった。河原の中に宿があったんだけど、川があちこちに動いてしまうので、そのたびに宿場を動かさざるをえない。それで最後は河原の石の上に宿を設けた、それで宿河原になった。
  • 旧石器時代の月見野遺跡群が示すように、かつて多摩川は相模川とつながっていて、ほぼ同時期、荒川とも青梅のすぐ北の入間からつながっていた。川崎の地形は扇形をしていますが、これは多摩川の度重なる氾濫によってつくられたものです。ちなみに、布田という土地があるのですが、下布田は川崎市側、布田は東京都側、等々力も東京と神奈川の両方にある。多摩川があっちへ行き、こっちへ行き、蛇行し氾濫し地形を変え、その土地に住む人間も変えていったのです。
  • さらに進むと、日原鍾乳洞のある日原川が支流域としてある。ここには石灰採掘所があり、これを下流の工場まで運び建材に加工されていく。すでに産業と川がつながっている顕著な例でしょう。それから尾根に囲まれ、うねうねと本流は蛇行し、白丸ダムに到着します。そこからヤマトタケルの白狼伝説のある、武蔵御嶽神社で知られる青梅市を抜ける。
  • 多摩川と呼ばれるようになる箇所は、小河内ダム付近から。昔、作家の石川達三が小説『日蔭の村』に書いた、1億8540万立方メートルの貯水を誇る巨大なダムです。ここの水は非常用に回す以外は、主に発電に利用されています。実は、東京都民の生活用水は利根川水系からとっているのです。ここにダム湖としての奥多摩湖がありますが、その湖にそそぐ丹波川の「たばがわ」という読みが、多摩川の語源だという説もある。石が玉のようだったからともいうし、はっきりしない。その不明確さが歴史の深さを物語るようです。

▼多摩川の汚染について

  • 調査結果では、多摩川の汚染でカシンベック病が発症したケースはないとされましたが、イタイイタイ病で知られたカドミウム汚染や、発がん性物質の樹脂であるABSの基準値の大幅越えもあり、多摩川は確実に公害の病巣と化していたのです。
  • 近づいて見ると、褐色の粘液状の液体が泡に絡みついている。もうグロテスクとしか表現しようがない。湾岸戦争で話題になった、石油で汚染された海のようなタール状の川になっていました。
  • 当時の多摩川の汚染はパニックを呼ぶ性質のものでした。首都圏の生活用水の依存度で言えば、多摩川は利根川に次ぐ2番目の河川です。以下は江戸川、相模川という順になっている。多摩川の水は主に首都東京で使用されているので、流域住民よりもむしろ、都心のほうから改善の声が上がったのです。私もハッキリと覚えていますが、川面は一面、ぶくぶくと泡が渦巻いていた。
  • 多摩川を昭和20年代頃みたいにできないか。俺にそれができるかどうか、それは問題じゃない。まずはやってみることだ。ただきれいにするだけじゃない。それではいけない。川が死ぬということは、本質的な汚染での死以外に、周囲の住民に見捨てられる死という2つの意味があるのです。
  • 川の再生の敵は、流域の人々の『善良なる無関心』だ。善良な市民なんだけど、川に関心がない。水道の蛇口の水がどこから来ているのかを知らない。トイレで流した水がどこへ行くかも知らないし、興味もない。それじゃ、いつまでたっても川は変わらない。
  • 現在、多摩川に注ぐ下水処理水のうち、高度処理されているのは、5分の1程度だ。この割合を高めていけば、今後も水質浄化が進むはずだ。
  • 現在、多摩川流域の下水道普及率は、ほぼ100%に達している。下水道普及率を上げることで水質浄化を進めるというこれまでの考え方は、もう通用しない。望みがあるとすれば、下水処理の量ではなく、質を向上させることだ。今、一部の処理場で、高度処理と呼ばれるシステムが動き始めている。これまでの下水処理の技術は、有機物の汚れを除去することには高い効果を上げるが、窒素やリンなど富栄養化の原因物質を除去することを苦手にしてきた。高度処理が導入されれば、窒素やリンが取り除かれ、処理水の水質が良くなる。
  • 「多摩川教育河川構想」としてまとめられた構想の文面「ありのままの多摩川の自然を子どもたちの学びの場にしよう」はそのまま、現在進められている「水辺の楽校プロジェクト」の考え方。水辺の楽校プロジェクトとは、地元の子どもたちが自然体験や遊びの場として活用できる河川環境を作り、地域で行う水辺での活動を支援しようというもの。1996年から、文部科学省、国土交通省、環境省が連携して全国的に推し進めている。このプロジェクトの始まる30年も前に同じ志を抱いていた市民たちがいたのだ。
  • 2001年には、多摩川の中下流が、環境省の発表する環境基準の中で、B類型と認められた。B類型とは、アユやサケ科魚類が暮らすためにも、水道水源として利用するためにも適した水質だとされている。この認定は、カシンベック病疑惑以来、取水停止が続いている調布取水堰の水が再び水道水源として認められたことを意味する。水道水失格の川は、30年の時を経て、ようやく汚名を返上したのである。
  • ダム建設後、羽村堰の下流では、日常的に川が干上がるようになった。これはもはや、アユが遡上できるかどうかという次元の話ではない。羽村から上流の流域面積は、多摩川の流域面積全体の4割を占める。多摩川は上流部4割を失ってしまったのだ。
  • 川の水質は、流入する汚濁物質を、どれだけ多くのきれいな水で薄めることができるかで決まる。汚濁物質とは、生活排水や農業排水の中に含まれている有機物と、リンや窒素などの栄養塩、工場排水に含まれる重金属などだ。多摩川に大量の汚濁物質が流れ込んでくるのは、中下流の都市部、第二の多摩川の流域である。第二の多摩川では、ただでさえ汚濁物質の量が多いのに、上流から流れてくるきれいな水がなくなったため、激しい水質汚濁が起きた。
  • 都市化が川にもたらしたのは、大量の汚濁物質だった。東京都によれば、当時の多摩川の汚染の原因の60%は、家庭下水によるものだ。この下水を処理するため1960年代から70年代にかけてし尿処理場が作られたが、し尿処理場だけでは、多摩川の水質汚濁を食い止めることはできなかった。し尿処理場で処理されたのは、トイレの汚水だけだ。台所や風呂から出た生活雑排水は、処理場ができる前と変わらず、垂れ流しになっていた。
  • 一般にBODが10ppmを越えると、川は悪臭を放ち、魚の生息に適さないとされている。し尿処理された水のBOD30ppmという値は、その3倍に当たるわけだから、魚の生息環境としては論外だ。川に放流することが許されたのは、川の水で汚れが薄まるから良いだろうという理屈だった。だが、この理屈、きれいな水をダムに奪われてしまった多摩川では、もはや通用しなかった。
  • カシンベック病は、元々中国東北部の風土病として知られていた奇病で、骨部が異常に発達する。この地域だけにカシンベック病が発生した原因として疑ったのは、水道水の影響だった。地域の水道水を作っていたのは、多摩川の調布取水堰から引き込んだ水を使う玉川浄水場だ。多摩川の水が奇病を引き起こす…このショッキングな情報は、市民を不安に陥れた。時の東京都知事、美濃部亮吉は、「疑わしきものは即座に処置せよ」の方針のもと、記事が掲載された9日後の9月28日、玉川浄水場に取水停止を命じた。

▼多摩川の環境保全のためのアイデア

  • 移動する川の博物館のようなものをつくる。船内にはレンタル用のライフジャケットが置いてあって、たとえば利用者から保証金をいただいて、使用後にライフジャケットを引き換えにお金を返すというような運営の仕方。
  • 「おさかなポスト」のような受け皿が、各市町村ごとに、1個ずつくらいあってもいいと思い、あるとき、市役所に「おさかなポスト」を置いてくれというお願いに行った。「市役所なら、転出届を出しに行くときに魚もつれてこられるでしょう。そこにおさかなポストも設けておけば、転入届を出しに来た人たちが新しい飼い主になれますよ」
  • 家庭で飼えなくなった魚類を引き取り、里親を募集する「おさかなポスト」が誕生しました。これには大きな反響がありました。テレビや新聞で取り上げてもらった直後に確認に行くと、グッピーなどの熱帯魚が、一度に2000匹ほど入っていたことがありました。
  • また、卵を産んで死んでしまった鮎を放置すると、そこからチッソやリンが発生してしまう。だから定期的に鮎を獲って利用しないと、汚染の元になってしまう。人間が食べることによって川の環境を維持できる仕組みが川にはあるのです。
  • 次の段階とは、鮎を食べられるようにすること。そうすれば、多摩川へ来る人が増える。漁協が機能し始めて、鮎を加工して出荷できるような態勢が整う。こうなると一つの事業になり利益を生みます。その利益を水産資源を増やす策に投資する。魚が増えて、川がきれいになったというアピールがしっかりできて、観光化の礎にもなる。
  • 奥多摩のダムが決壊したら、東京の世田谷から川崎市のほぼ全域はほとんど水に浸かるでしょうね。私見ですが多摩川には遊水池もないですから。昔の川崎には遊水池があり、梨畑があった。もし水があふれても、梨畑にいっぱい入ってくれば肥沃な土地になっていいじゃないか、という時代があった。それがいまはもうない。
  • 高度処理さえすれば、「アユと泳げる川」がよみがえる、とはいかないようだ。下水処理は、すべてを解決してくれる万能策ではない。下水処理頼みの環境再生について、もう一つ懸念されるのは、水温の問題だ。下水処理水が多く流れ込むことで、多摩川では冬場の水温が下がらなくなってきている。東京都環境科学研究所の報告によれば、多摩川中流の河川水の冬場の水温は5℃。ここに17℃の下水処理水が流れ込んでいる。

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