2009年8月11日火曜日

本「坂の上の雲(3)」

<本の紹介>
日清戦争から十年―じりじりと南下する巨大な軍事国家ロシアの脅威に、日本は恐れおののいた。「戦争はありえない。なぜならば私が欲しないから」とロシア皇帝ニコライ二世はいった。しかし、両国の激突はもはや避けえない。病の床で数々の偉業をなしとげた正岡子規は戦争の足音を聞きつつ燃えつきるようにして、逝った。
-----

この本で一番「なるほど」と思ったのがこの一節でした。
「敵に対しては見つけしだい、攻撃すべきである。この場合、彼我の兵力を考慮すべきではない。」
確かに、その通りかもしれない。先手必勝、兵力が同程度であれば先に攻撃をしかけた方が良いに決まってる。サッカーだって先取点を取るべきだ。はじめは守って、なんて、それが囮作戦でないなら勝とうと思ってんのかって内部で思う人が出てくる。士気が下がる。
兵力がこっちの方が大きいならなおさらだ。戦うときは、圧倒的な戦力で相手の分散された戦力を叩いて、局地の勝ちを積み上げていくのが正攻法。勝てるときに勝負しないなんてありえない。勝っておくべきだ。相手を殲滅しておくべきだ。
兵力が少なくとも、完全な逃げ一手はその師団、旅団全体の士気を落とす。それ以降の戦闘の結果を左右しかねない。攻撃しながら退却すべきだ。それをしなかったのがこの巻でのロシアだったんだけど。

ちょっとこれを読んで、抑止力としての自衛隊のあり方ってどうなんだろうって思いました。
「専守防衛」って、他国から見たら「攻撃されない」ってわかってる戦艦や戦闘機が近寄ってきても、なめてかかるだけじゃないかな。俺なら、なめる。領空、領海を平気で犯しそうな気がします。そこで砲撃することは、ある意味当然のことだ。自分の権利を侵されているのに、相手の言い分をそのまま聞く必要はない。受け入れる必要はない。お互いの言い分を聞いた上で定めた条約や決められたルールを先に破ってんのはそっちだろって話なだけだ。
第2次世界大戦に負けて、原爆を落とされて、デキレースの東京裁判の判決を受諾して、かつてはあった上みたいな考え方を捨てて、一番安心したのは多分日本の国民じゃない。日本を脅威に思ってた人たち、国たちだ。
よっぽど、この本の時代の日本の方が列強と伍していく強さを持っていたように思います。だから逆に、明治維新からわずか数年でそこまでの進化を遂げた有色人種がいることに、今まで有色人種の国は植民地にするもんだと思ってた欧米列強は脅威を感じたってのが歴史の筋なんだろう。そして、この作品が日本人に支持される理由なんだろう。「いい思い出を反芻する」ってのは、新しいことをする以上に気持ちよくなれるって側面もあるから。
(注:深~い知識があるわけでも有識者なわけでもないんで個人的な感想です。)

自分たちは、過去の日本人が「次代の為に」って考えに考えを重ねて、議論に議論を重ねて、失敗もあったろうけどそこから学んだこともあったはずで、そうやってやってきたその上に今いる。
その中で培ってきたものが、全て受け継がれてるかと言えばそうでもないと思うけど、なるたけ汲み取りながら、自分たちの次の世代に気持ちよく引き継いでいけるような何かを築いていけるといいのかな、とか思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿