2009年9月22日火曜日

本「坂の上の雲(6)」

<本の紹介>
作戦の転換が効を奏して、旅順は陥落した。だが兵力の消耗は日々深刻であった。北で警鐘が鳴る。満州の野でかろうじて持ちこたえ冬ごもりしている日本軍に対し、凍てつく大地を轟かせ、ロシアの攻勢が始まった。左翼を守備する秋山好古支隊に巨大な圧力がのしかかった。やせ細った防御陣地は蹂躪され、壊滅の危機が迫った。
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この巻は、今までと違う動きが出てきた。「大諜報」って項だったんだけど、戦争で戦ってるのは前線の人間だけじゃなく、世論を有利になるよう煽る人たちもいて、その人たちのことはあまりクローズアップされないだけに新鮮でした。
何かしたいけど、理由があってできない。そういう人は過去にも現在にも、そしてこれからも残念ながらいなくなることはない。その人たちの後押しをすること、その人たちの背中を押してあげること、大きな流れにしてあげること。そういった応援を通して、自分も、賛同してくれる人たちも楽しめる世の中になってくといいなぁと思うし、それができるのにやらないのは、「やりたくてもできない」人に対して失礼にあたるんじゃないか。そう思って、PartyTimeなりなんなり、いろんな形のグループやイベントを作って楽しんできた。
半分裏方として、半分は表にも出て。そういう人たちって、今の世の中にだってたくさんいるはずなんだ。でも、誰もがいろんな人がやってることに目を向けることも、その情報にアクセスすることも、やろうと思えばそんなに難しくないハズなんだけど、そうは言っても実際は難しかったりして。

相手のことがわからない以上、どこまで情報を出していいものか、どこまで入り込んでいいものか。そこまでどっぷりつかるつもりもなくて、真ん中に引きずり込まれるのが嫌で、自分のペースを乱されるのが嫌で入っていかないってのもあるだろうし、入りたいは入りたいんだけど、入り方がわからないってパターンもあると思う。何をすべきか。

そういう人たちが楽しめる部分だと思いました。
放り出された場所で、今までの功績を誰も知らない場所で、今までに築いてきたものの力を一切借りずに、同じものかそれ以上のものをまたイチから作り上げる。そんなチャレンジをどんなアプローチでやっていくのか。仮想、自分。

戦争の話については、この巻だから特筆したいってことも少なかったけど、司馬遼太郎の新聞観、みたいなものがあったので紹介します。
「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するもの。そして、煽った世論に煽られて、国民も、新聞自体も錯覚を抱くようになる。」
起こった事件を他社よりも一秒でも伝えることも大事かも知れない。けど、それだけじゃなくこういう要素があってもいいんじゃないかなと思いました。新聞を読めば読むほど、知識が増えていったり。読めば読むほど知性が上がって、人として尊敬されるようになっていったり。
それは新聞では出せない部分なのかも知れないけど、何も考えずに他の人に発信する、何も考えずにだらだら受信するってのは、本当に流行に煽られるだけで大事なことがわかってない人になったりしないかな、とか思いました。

新聞、しばらく取ってないけど、活字にも慣れてきたし取ってみてもいいのかな。なんて思いました。

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