2007年1月20日土曜日

アディオス蒲田

今日は、蒲田最後の日。

住んでたとこはもちろん、青葉、FACTORY、上海厨房、わんにもよく行った。ジョナ、ココ壱、TSUTAYA、吉野家、散髪屋さん、クリーニング屋さん、和鉄、歓迎、びゅうプラザ、NIJU-MARU、本門寺、、、あれ?飲み屋とメシ屋ばっか?笑

社会人の1人暮らし、やっぱお世話になるのは生活に関わるとことメシすからね。
最初から、俺料理できないしそうなることがわかってたから、深夜までやってる高くないメシ屋が比較的他の駅より多いとこ、飲んで帰るのにめんどくさくない飲み屋が多いとこを選んでたんだった^^;
加えて言えば、部屋のキッチンはやかんが使えればどうでも良かった。ほんと料理やる気ゼロだね。笑

1本乗り換えれば家賃が5000円安くなるって知ってても、それよりメシの方がお金使うからそっちが安心出来る方が俺は良かった。

いろいろと、お世話になりました。

ブクロ時代程たくさんの思い出はないけど、自分の狙い通りに特に不満もなく過ごせたんで良かったかなと。ここじゃなきゃダメ、とは思わなかったけど。

それでもまた何年かして蒲田に来たら、親近感沸くと思う。ブクロがそうなったみたいに。

でも今振り返ってみて思ったけど、ちゃんとステップアップしてきてんじゃん。

親元を初めて離れた池袋時代。
家賃5万円/築20年以上の1階和室だった千早荘は、窓を開けても2m先には違う建物があって人も住んでたから日当たりがゼロ。冬なんか下の土が凍ってて日で暖かくなんないから「外より寒い」って言われてたボロ家。雨が降るだけで揺れたし、隣の人や2階の人が動くと音がなった。台風なんか来ようものなら家は危ないんで映画館とかブックオフ、ファミレスとかに避難した。軽くねずみーらんどだったしゴキ・ブリオはもちろん出たし、窓から猫が入ってきたこともあった。「こらこら、お前入ってきちゃダメだよw」って。笑。夏はそんな環境で網戸もついてなかったから、蚊との闘いの日々だった。そーいや、最初は物干し竿が枯れた竹だったわ。途中で折れてちゃんとしたの買いなおしたけど。
それでも、いろんなダチが来て、酒が常に置いてあって、たまりばだった。「お前んち来ると(話したりゲームしたり飲んだり飽きなくて)立てなくなる」って言われて。楽しかったな~。

学生から社会人になった蒲田時代。
さすがに池袋の部屋じゃ安眠は確保できないし、仕事以外で神経すり減らしちゃうってことで稼げるようになって移った。家賃は少し高くなったけど、新築のオートロックつきのマンションの4階は静かで、俺の眠りを妨げる奴は誰もいなかった。南側が道路で、日当たりを妨げる奴もいなかった。とりあえずすげぇ暑かった。笑。メシも少し歩けば店があったから、特に不満はなかった。ま、仕事ばっかしてたし寝るための部屋になっちったからね。ネコやねずみやゴキブリは出なくなったし、だいぶ生活は改善したと思ったけど、やっぱ人間の欲望って尽きないもんで、満たされると次が出てくるね。家賃てもったいないなって思いが今度は募ってった。かれこれ5年も払い続けても、自分の元に残るものは常に向こう1ヶ月の居住権しかないんだから。。。ちょうどそんな中で鎖骨が折れて、決心したのかも。「また折れたら、いや次は重大な病気にでもなったら、それで会社休んだら、俺ここ住める程稼げなくなるぞ。どーすりゃいんだ!?」って。それで「形に残る稼ぎ方」を考えた結果が、これだったりする。

今までの経験は全て今に活かされてる、と思ってる。
逆にこれまでの経験があったからこその今、とも言える。The Present Day風に言えばネ。笑
けど、「これでいいとホントに思ってるか」と言われると、自信持ってYESとは言えない。
そのまま賃貸続けてる方が気楽だし、良かったのかもしれない。
「人生経験積むためにいろいろ手ぇ出してみる」って選択肢を軽々とは選べなくなったのは事実だし。

でも、しょーがないじゃんね。選んじったんだから。「実現する」って決めちったんだから。

このまま行くしかないと思う。時間かけなきゃ、どっちが良かったのかなんて見えてこないと思う。
ダメだったときのことも、それなりに考えて場所を選んだつもりだし。

てことで、俺は蒲田を離れるし、大きな意味じゃ賃貸派も離れます。
そいつが今後どう転ぶのかは、みんなに先駆けて同じ世代の実験台になろうかと思うんでみなさん高みの見物でもしててくださいな。
「25歳にして賃貸派から買う派に移った彼はその後どうなるのか。」なんて。笑

・・・いやぁ、プレッシャーだなぁ^^; 知ーらねーぞww

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