2014年8月13日水曜日

多摩地域の人物・グループ

■多摩地域の人物

▼太宰治
  • 文豪 太宰治は1939(昭和14)年9月から亡くなる1948(昭和23)年6月まで三鷹市に暮らし、三鷹市を描いた作品を手がけている。
  • 没後半世紀が過ぎた今も、太宰は世代を超えて熱烈なファンを持つ稀有な作家だ。先日、最年少で芥川賞を取った綿矢りささんも愛読しているという。
  • 愛人の山崎富栄さんと玉川上水の上流で身投げして自殺した。太宰の遺体はすぐに運ばれたが、山崎さんはしばらく放置された。「有名人の方だけ大切に扱うのか」とがっかりした人もあった。
  • 今でこそ太宰は街づくりの目玉となっているが、身投げ当時はまだ拒絶反応が残り、煙たがる人も少なくなかった。愛人と心中して、市民の飲み水を汚した男。禅林寺での相次ぐ後追い自殺。桜桃忌にあつまるファンたちが騒々しく、シャッターを閉める店も少なくなかった。「迷惑な存在」。そんな見方が一変するのは98年に、三鷹など各地で没後半世紀ののイベントが開かれるようになってからだ。
  • 市民グループが主催するガイド養成講座を機に参加者20人で発足したのが「みたか観光ガイド協会」。毎月第4日曜日の午前9:50に三鷹駅南口を出発。2時間半かけて太宰ゆかりの場所を案内する。参加費無料で雨天決行、予約なし。根強い太宰人気に支えられ、これまで参加者ゼロという日は一度もない。
  • 若杉屋という店に、「太宰治ゆかり」と看板があった。
▼三木露風
  • 名曲「赤とんぼ」の作者であり、三鷹市立高山小学校の校歌の作者。
  • 校歌発表会の9ヶ月後、交通事故で逝去。葬儀場に参列した児童たちは近衛の指揮で校歌と「赤とんぼ」を歌い、母校の恩人にさよならを告げた。その墓前に、女子児童たちが長い間ひそかに花を供え続けていたと知ったとき、露風の妻なかさんは涙を流したという。
▼山本有三
  • JR三鷹駅から玉川上水沿いを進むと、おしゃれな洋館が目に留まる。三鷹市山本有三記念館だ。戦前から終戦直後の11年間を過ごした有三の旧邸である。有三はここで代表作『路傍の石』や戯曲『米百俵』を書く。
  • 「『船が難破して絶海の孤島にたどり着いた気持ちで、それぞれ長所を役立て社会をつくろう』と、おやじは彼らによく言っていました。」主人公の精神的成長を描く『次郎物語』の執筆を始めたのはその頃だ。その第5部に描かれる青年塾「友愛塾」はこの浴恩館がモデルである。
  • 「地球の未来のために何をすべきかを考える時に、戦争とは何事か。世界に役立たなければ日本は生きていけない。」
▼美濃部亮吉
  • 多磨霊園に眠る美濃部氏が、財政破綻を招き「惨憺たる状況の中に幕を引く」という言葉を残して都知事の職を離れたのは、1979年。世を去ったのは、そのわずか5年後の12月24日のことだった。亨年80歳。「あなたを失って一番悲しんでいるのは、老人、婦人、働く人々などです。あなたが東京に取り戻してくださった青空は、永久に私たちの心の中に生きています。」という弔電が紹介された。
  • 広大な霊園の敷地の中から探し出したその墓は、大きくもなく小さくもなく、傍らに名刺受けが設置されていることを除けば、他の大多数の墓と大きな違いはないものだった。墓石には、ただ美濃部氏墓とだけ記されていた。

■多摩地域のグループ

▼阿佐ヶ谷会
  • 昭和初期には、高円寺から西荻窪にかけての文化人・作家グループが、井伏鱒二を中心に集って「阿佐ヶ谷会」というのを作った。これが、"元祖中央線文化人"の集合体です。そのメンバーとは。彼を慕って集まった太宰治。仏文学者の青柳瑞穂。『チャタレイ夫人の恋人』を訳した伊藤整。文壇のまとめ役、巌谷大四。『安曇野』の作者・臼井吉見。芥川賞受賞の小田嶽夫、社会評論家でもある亀井勝一郎、仏文学者の河盛好蔵、私小説の上林暁、木山捷平、外村繁などなど、近代文学に貢献したそうそうたるメンバーが顔を連ねています。
teratotera
  • 2010年より中央線エリアでアートプロジェクトを開催。地域と積極的に関わりながら活動を続けるTERATOTERAの運営には「テラッコ」と呼ばれる多くのボランティアスタッフが参加している。東日本大震災から2年余りの月日が経ち、参加する「テラッコ」達にも、大きな変化が感じられるようになってきた。
  • 友人や会社、家族といった個人的な繋がりを超え、より大きな共同体や地域への繋がりを強く指向するようになり、そういった意識が地域と密接に関わるボランティアへの参加を促しているのかもしれません。そして、その変化は今、アート、ボランティアといった分野だけでなく社会全体へと拡がっているように感じられる。

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