2014年8月8日金曜日

日本の歴史について

■官報

▼行政が毎日発行している公告 https://kanpou.npb.go.jp/index.html

■天皇家

▼万世一系
  • 過去に女性天皇は存在しても、「女系天皇」は1人もいない。女性天皇はあくまでも次の男系天皇への一時的な橋渡しの役割を果たしただけというのが実態。本筋の皇位継承の流れはすべて男系でつながれていて、そこには一つの例外もない。ゆえに、これを守ることが万世一系を守るということ。
  • 「男尊女卑の因習は世界中どの国でも根強く残るけれど」と前置きして、ある途上国の首相から「日本は先進国なのに、なぜ天皇を男のみに限るのか」と問われたことがある。「国民平均所得のような物差しだけで先進国と決めるのは間違いですね」と答えた。女帝問題が「問題」になるおかしさは我が国の恥。あのときほど日本人として恥ずかしいと思ったことはなかった。
▼3種の神器
  • 鏡を見ることは、神の心を知るということ。だからその鏡を磨きあげて、にごりない心で常に神の心・民の心を知るということが天皇にとって最も大切なこと。従って3種の神器の中で1番大切なものとして鏡が位置づけられている。こうした精神をもって歴代天皇はこの国を治めてこられた。
▼年号
  • 令和となったいま、昭和xx年生まれの人の年齢を計算しようとして戸惑ったことはないか。このようなことは、西暦1つの表記にしておく方が実にわかりやすい。それに気づいたのか、中国では、それまで統治者ごとにつけていた年号を、中華人民共和国になってすっぱりやめてしまった。

■江戸時代

  • 1人の殿様とやらが歩くのに、200人も300人も大の男がその周りにくっついて歩かねばならぬことの理由がわからないのであります。その上に、こうしてせっかく市民が面白く見物をしたり、遊楽をしたりしている最中を、大手を振って押通り、押しが利かないと、この通り乱暴狼藉を働いて突破する、その我儘が通ることの理由もわからないのであります。

■幕末

  • 薩摩屋敷へ浪士を集めたのは、西郷隆盛と後の板垣退助も関係していたということでありますが、徳川幕府を倒さねばならぬという志士浪人の頭に、同時にひらめくのは、いつも徳川と薩摩との仲をよくさせてはならないということでありました。
  • 徳川家と薩摩とは、姻戚の関係もあったりして、どうかすると黙契が成立しそうになる。もしも薩摩が徳川をたすけることになると、せっかく倒れかかった徳川の家に、有力な根つぎが出来た結果になって、そうなっては天下の改革の時が遅れる。徳川と薩摩とを握手させてはならない。江戸の市民をして、薩摩を憎ましめるように、薩摩をして、幕府を脅威せしめるようにしかけなければ、大事をあやまるの形勢となることを、志士浪人の間には深く考えていたものがあるのです。

■第1次世界大戦

  • 欧米の経済的呪縛のもとにアジアの国々が独立して行けば、日本は永久に孤立する。大東亜共栄圏の夢は、そうした未来の状況を阻止する唯一の道ではなかったのか。
  • 口汚ねえ言い方をすりゃ、帝国陸軍は百姓の軍隊だったんだ。人生に何の希望もねえやつらが集まって、てめえらにァもともと一等にあわねえ、もともと大嫌いな争いごとを商売にしてたんだ。軍隊のおかしな習慣とか、へんてこな言葉遣いとか、がんじがらめの規律とか、そんなものはみんな、無知で無教養な百姓の倅どもを兵隊に仕立て上げるために考え出されたものさ。

■第2次世界対戦

  • マッカーサーは「忠誠」にきわめて厚い人物であった。彼自身、軍人のもっとも大切な資質として忠誠をトップに挙げている。彼の意味する忠誠とは、①長上者に対する忠誠、②共に働く大義に対する忠誠、③上官と部下に対する忠誠であり、「上の者でも忠誠の念を欠くと危ない」と説いている。
  • 日本の教育制度が個人よりも集団や国家を重視する"全体主義"をもたらし、思想統制を通じて"軍国主義"や"超国家主義"が拡大し、大学入試制度は国家に忠誠を誓うエリート選抜の道具となっているとの基本認識に立って、教育改革が検討された。その結果、①民主主義・平和主義・国際主義理念の注入を図る、②文部省の政策機能を停止させ、思想統制を担った教学局を廃止させるが、文部官僚は利用する、③軍国主義的・超国家主義的な教師を公職追放する、④小学校の「修身」「日本史」「教連」を廃止する、⑤文部省内や府県庁に教育担当の民政官を派遣する、⑥教師の再教育と師範学校などの教員養成制度の徹底的な改革を行う、などの方針が定められた。
  • 占領行政はマッカーサー総司令部の責任のもとに実施されたが、その背後にある対日占領政策の基本方針は、ワシントンの国務省や陸軍・海軍両省、あるいは占領軍を直接管轄する統合参謀本部によってほぼ戦時中に定められていった。その策定過程では、主として3つの争点が生じた。すなわち、第一は天皇制の存置か廃止か、第二は直接統治か間接統治か、第三は単独管理か共同管理かをめぐる論争である。
  • 次いで彼を悩ませたのが病気の拡大であった。胃腸障害、腸チフス、天然痘が相次いで発生した。おびただしい死体があり、また水質環境の悪化がハエを生み、それが病気を蔓延させた。そこで空からDDTを市街に噴霧した。また水不足には軍隊を動員し、パシグ川からバケツ・リレーで水を運んだ。2月までにマニラ市内の激しい戦闘は終わっていたが、まだ残敵掃討は続いており、マニラ周辺や空港など主要施設での行動は警戒を怠らずに、公共衛星業務を遂行せねばならなかった。以上のようなフィリピンにおける一連の行政施策が、日本の敗戦以後の占領開始にあたり、きわめて有効に生かされたことは想像に難くない。
  • 日本兵13人が降伏した敵の兵隊を引率するのである。とにかく後方へ送ろうということで、大隊本部へ送り届けることになった。大体本部がどこにあるのか、それも分からない。とにかくもの来た道を後方に下がるだけである。1人の日本兵が300人近いアメリカ兵を引率しているのである。後ろからブスッとやられたらそれきりである。気味の悪いこと、この上なしである。もしこれが日本兵とアメリカ兵と立場が逆になっていたら、13人くらいの的ならあっという間に殺していたであろう。自分たちも昨晩から何も食べていない。まして何千、何百人といる降伏兵に食糧などあろうはずがなかった。やっとのことで大体本部を探し当てて降伏兵を送り届けた時は思わずほっと安堵の吐息をもらした。大隊本部は連隊本部へ、連隊本部は旅団司令部へ、旅団司令部は師団司令部へ、師団司令部は軍司令部へ送り届けるよりほかはない。この間三日はかかる。炎天下の中を飲まず食わずで三日間歩かされたことであろう。死者も病人も出たであろう。降伏兵たちを運ぶトラックもない。これが世に言う『バターン半島死の行進』である。日本軍が15人ぐらいで捕虜を500人ぐらい連れていく。日本軍には降伏はないから、こんなに沢山の捕虜が出て来たのでかえってびっくりした、というのが実感ではないですか。第一受け入れ態勢も何もない。我々だって自分の飲み水も食糧もないのです。捕虜もひどいがこちらだってひどい。我々も水筒一本ぐらいしか水がないのだから、こちらも飲まず食わずだった。それにマラリアが多くて捕虜がバタバタ倒れた。車がないのだから我々も歩くより仕方がない。水・食糧・マラリアの3つの苦しみ、捕虜ばかりでなく、日本軍も同じだった。
  • マッカーサーを最高司令官に任命することは、枢軸国側の非難中傷を相殺するためであったのである。そのような政治的粉飾をマーシャルはもっと率直に指示していた。
  • エーキンの機密情報は、陸軍内にとどまらず、ウイリアム・ハルゼ―提督率いる第三艦隊の情報部へも提供されるなど、ともすれば険悪となりがちな陸海軍間を協調させるほどの貢献も果たした。情報戦こそが戦争の帰趨を決めることをエーキンは熟知していたからである。
  • 日本人の中で、当時もっともマッカーサーと賢密な関係を築いた吉田茂首相は、衝撃的なマッカーサー解任による離日に際し、「貴官が連合国最高司令官として、わが国を改造し再生させるにあたり、成し遂げられた記念すべき業績に対し(中略)感謝の気持ちを、この私的な書面の中で繰り返す必要はないでありましょう。日本国民はすべて、天皇陛下から路上の市民に至るまで貴官の離日を惜しんでいます。」と最大級の賛辞を送っている。
  • マッカーサーは歴史上、一国(すなわち日本)の国民の健康をもっとも向上させた医者。
  • 米空軍参謀長カーチス・ルメイ。日本で彼ほど悪名高いアメリカ軍人はほかにない。ルメイは戦後、あくまで自国を守る職業軍人として戦いに臨んだのだと攻撃の正当性を主張しているが、いかに自軍の被害を抑えるためとはいえ、日本の67都市の50~90%の面積を焼き尽くしたうえに、なお2発の原爆を落とす戦略的な意味などまるで見当たらない。原爆投下は高度な政治判断ではあるが、桁はずれに好戦的で粗野なルメイが人間として犯した罪業は限りなく重い。
  • 旧日本軍が捨てた何千発もの機関銃の弾を氷を割って掘りだすと、持ち帰って分解した。雷管を下手に釘などでポンとやるとダーンと爆発する。当時は子供もそれぐらいの知識は持っていたから、ペンチで弾を抜くと、火薬だけとって貯めた。それを学校へ持って行ってストーブの上に乗せると、ババババンッとはぜた。当時まだロケットという知識はなかったが、近所に器用な大人の人がいて、その火薬を鉄パイプに詰め、釘のようなものでつついて発火させると、火がすごい勢いでシュシュッと飛び出した。
  • マッカーサーは親子二代にわたって、フィリピンの実質的な王であった。しかもそこは、当時アメリカ合衆国が持っていた唯一の巨大植民地であり、極東における軍事拠点である。そのことだけを考えても、彼は他社の追随を許さぬ権威を握っていたはずだ。独立後の植民地を永遠に呪縛する方法は、ルーズベルトやトルーマンの政策になくても、卓越した軍政官であるマッカーサーは考えていたかもしれない。
  • 日本は敗北したとはいえ、白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義さらには人種差別というものに終止符を打つという、スペクタキュラーな偉業を成し遂げたのです。日本人の誰もそんなことを夢想だにしていませんでしたが、結果的には世界史の大きな転機をもたらしたという点で、何百年に一度の世界史的快挙をやってのけたと言えるでしょう。
▼東京大空襲
  • 1945年3月10日の東京大空襲では、下町を中心に一夜で10万人以上が死亡しました。一夜としては史上最大の大虐殺です。あらかじめ関東大震災時における被害状況を調べ、下町に木造住宅が密集していることをつきとめた上で、木と紙でできた日本家屋を最も効果的に焼きつくすために新たに開発されたE46という集束焼夷弾を落としました。だから被害地域が関東大震災の時と似ています。浅草などではまず円で囲うように周囲に焼夷弾を落とし、逃げ出せないようにしてから徐々に内側へ落として行って人々を追いつめました。
  • ビルに逃げ込んだ人も、吹き込む火炎流で焼死あるいは窒息死し、隅田川は川面が溺死体で埋まりました。残忍な皆殺し計画でした。
  • 東京はその後も何度か爆撃されました。上空の強風を避けるため2000mほどの低空飛行から投下したので、爆撃は極めて精確でした。爆破でもしたら国民の底深い怨恨を買うであろう皇居は目標から外されました。ロシア正教のニコライ堂、ロックフェラー財団の寄付で建てられた東大図書館、米国聖公会の寄付で作られた聖路加国際病院や立教大学、占領後に自分たちが利用とした銀座の服部時計店(米軍PXとなった)、第一生命ビル(GHQ本部となった)なども外されたから無傷でした。
▼原爆投下
  • アメリカの原爆投下命令は、ポツダム宣言の発表以前に下されていた。原爆は「ポツダム宣言を拒否したから」投下されたわけではない。
  • 核爆弾も核弾頭も必要ない。核物質があって、それを普通の爆弾に積んで爆発させれば放射能はそこかしこに飛び散る。それだけで世界は恐慌をきたす。テロの手段としてこれほど有効なものはない。今度の福島原発の事故で改めて、そういうことを世界の誰もが認識したのです。
  • 誰もが放射能の恐怖に怯えているという事態の深刻さを、アメリカ自身が最も強烈に認識したはずです。なぜならアメリカは世界で唯一原爆を投下した国であり、核爆発と放射能の悲惨さをよく知っているからです。9.11を持ち出すまでもなく、自分たちこそがいちばん「報復の女神」のターゲットになりうるということもわかっている。
▼玉音放送
  • 「いっさいの戦闘行動を中止する。芙蓉部隊は陛下の部隊である。詔勅が出た以上、もはや私に戦いの指揮をとる資格はない。納得できなければ、私を切ってから出撃せよ。」隊員の誰もが一度も見たことのない涙が、美濃部少佐のこけた頬をぬらしていた。隊員たちの中からも嗚咽がもれ、高まりを増して、焦げ付くような夏の空気をふるわせた。
▼東京裁判
  • 東京裁判では、「広島、長崎への原爆投下という空前の残虐を犯した国の人間に、この法廷の被告を『人道に対する罪』で裁く資格があるのか」は詭弁により斥けられました。触れてはいけない大地雷に触れたこの爆弾発言は、発言とほぼ同時に日本語への同時通訳が中止させられたため、日本人の耳にも届かずマスコミにも流れませんでした。欺瞞に満ちたこの裁判を破砕するものだったからです。
  • 「"正義は力なり"を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう」という記事を1945年9月15日に載せた朝日新聞は発刊停止となった。(言論・表現の自由を米国の作った憲法に明記されているけれど。。。)

■戦争

  • 数えきれぬ人間が、自分の命に勝手な理由を付けられて死んでいった。
  • もし現代の定義を適用して日本を侵略国というのなら、英米仏独伊露など列強はすべて侵略国です。ヨーロッパ近代史とはアジア・アフリカ侵略史となりますし、アメリカ史とは北米大陸太平洋侵略史となります。清国も侵略国です。ただしこれらの侵略国家が倫理的に邪悪な国ということにはなりません。この2世紀を彩った帝国主義とは、弱肉強食を合法化するシステムだったからです。
  • 日本の軍人達は、戦場で涙ながらに老いた父母を思い、自分の死後に残される新妻や赤子の幸せを祈り、恋人からの手紙を胸に秘め、学問への断ち難い情熱を断ち、祖国に平和の訪れることを願いつつ祖国防衛のために雄々しく闘いました。それが今、地獄さながらの戦闘で散華した者は犬死にと嘲られ、かろうじて生き残った者は人殺しのごとく難詰されるという、理解を絶する国となってしまったのです。
  • 祖国のために命を捧げた人に対し感謝の念をこめ手を合わせて拝むべきものであるのに、戦争の罪を一身に背負わせているのです。
  • 平等だけを追い求めた戦後は、多様で多彩な生活文化の層までも単色化してしまった。そんな日本に比べれば、欧米ははるかに大人。

■2011.3.11 東日本大震災&福島原発事故

  • 福島原発の事故がいちばん危機的だった3月17日に横須賀に行ってみたら、アメリカの艦隊は一隻もいなくなっていました。ちょうど3月11日に港に入って、1ヶ月の予定で修理にかかるはずだった原子力空母ジョージ・ワシントン以下、機動艦隊が影も形もありません。アメリカは海軍、海兵隊共同で「トモダチ作戦」と称する被災地救援オペレーションを行うといっていたので、東北沖にでも向かったのかと思ったのですが、何のことはない、全部出航してフィリピン沖まで逃げてしまったのです。
  • 米韓合同演習のために来ていた空母ロナルド・レーガンが東北沖に姿を見せましたが、これも福島原発から125海里(230キロ)以内の海域には決して入りませんでした。これが日米同盟の実態です。

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