2014年8月4日月曜日

これからの行政について

■住民のリーダーとして

  • 初めは三拝九拝して納得させ、東京市の恩人などとおだて上げ、次に袋の鼠と追い込み、最後に首っ玉を捕まえて有無を言わせず引きずりまわす。それが役人の慣用手段。
  • 政府は効率が悪く、スピードが遅く、不正が起こりやすく、官僚的で、地位に居座り続ける傾向がある。これらは、全て政府が持つ利点の副作用。その規模、パワー、および影響範囲の広さは、ほとんど必然的に扱いにくい。同時に、自分達のためにその力と富を使いたがっている人たちに対しても魅力的なものになっている。
  • しばしば、行政職員は自らを「ジェネラリスト」と称することがあるが、そろそろこうした自己認識をあいまいにするような言い方はやめにしてはどうか。少なくとも、プロボノとの関わり方において、行政職員は、行政プロセスのプロフェッショナルとして、あるいは、地域の事情を知るプロフェッショナルとして、市民と正面から向き合うことが求められるだろう。
  • 政府はものを作ることは上手いことが多いが、それがもはや必要なくなったり、あるいは負担にすらなってきたときに、作るのを止めるのはあまり上手くない。
  • 真のエリートには2つの条件がある。第1に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。これがまず1つ。 第2は「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があること。俗世に拘泥しない精神性が求められる。
  • 外交官というのは、いかに末端の仕事を担当していても即座にでも日本国の首相がつとまるほどの経綸と構想を用意しておかなければならない性格の職務。
  • 学者仲間でどう言われようと、美濃部先生には、学者の在り方を人間の生き方の問題としてとらえた確乎たるお考えがおありになってのことだったと思われ、また、能力的に、学問研究と社会性をマッチさせ得る豊かな資源を備えておられたのである。社会との連帯があってこそ、自らが極めた真理が有意義となることを、実践で示された先生だった。
  • 国を統治するってことへの意識の高さ。川の流れを変えて国の被害を最小化するとか、米以外の特産物を指定して不作に対応するとか。
  • 政治家は、日頃から国民の生活に重要なテーマや国の中長期的課題に関心を持ちながら、広い視野をもって政策の方向性を決定する。一方、官僚は、その政策を具体化すべく資料や情報を収集し、研究、議論することで集積した専門知識をベースに、その状況に適した具体的な政策を政治家に提案する。そして政治家がそれらをもとに、官僚とは異なる考えをもつ他の専門家や支持者の声も聞きながら、総合的に判断し、結論を出す。
  • 仮にそれが官僚の意見を否定するものであっても、政治家自身が示した方向性を実現するために、最も効果的な政策はどのようなものかを優先的に考え、当然ながら、出てきた政策に対しては政治家が全面的に責任を負う―。これこそが政治家と官僚の本来あるべき関係であり、真の政治主導だ。
  • 国益を無視して省益確保に奔走する先輩を否定すれば、それは省の論理と相容れず、はみ出し者の烙印を押される。国民の生活向上のために頑張っていても省のために頑張っているように見えなければ、そして結果が省のためにならなければ、決して評価されないのである。
  • はっきり言って、役人にとってはプロジェクトが成功しようと失敗しようと関係ない。「利益」は出なくても「利権」は生まれるからだ。
  • 法律作成という作業のなかには、与野党の複雑な利害関係をうまく調整するといったセンシティブな事案も少なくない。それをまとめた能力は評価されてしかるべきなのだが、役人の世界ではそれでは足りず、必ず副産物をつけなければならないという決まりがある。すなわち、権限と予算と天下りポスト。この3点セットをつけることを自動的に考えるように思考回路が形成されているのだ。
  • 官僚の仕事を評価する基準の一つが「省のために副産物をつくる」ことともう一つ目に見える基準が「労働時間」。というわけで、官僚たちはせっせと残業に励むことになる。
  • 政治家には、「私たち忙しいから、あんたらやって」って言ってるだけ。勘違いして政治家や官僚を「頭いい人なんだ」なんてありがたがる必要なんてない。「アホ!働け!俺らもこんだけ働いてんだぞ!」って 政治家に言わなきゃいけない。
  • 「税金でまかなっている大学を、国が管理するのは当然」というときの「国」はおそらく政府。「お国自慢」というときの「国」は、日本国であるにしても、何々県であるにしても、とにかく政府という意味ではない。日本人は、自分の国のどこを自慢しても、政府だけは決して自慢しない。
  • 赤ん坊は自分の知識を持ち合わせていない。しかし母親はこの要求をくみとって世話をする。それは真心があるからである。真心は慈愛を生む。慈愛は知識を生む。真心さえあれば、不可能なものはない。役人は、民には母のように接しなければならない。民をいつくしむ心さえ汝にあるならば、才能の不足を心配する必要はない。

■福祉

  • 障害者福祉がいかに厚くても、それはやっぱり結果の福祉であります。原点を示せば、いかにして市民の子弟に障害の発生を防ぐかに、すべての対策の基本があります。出生1ヶ月でガスリー法による検査を行い、乳幼児検査カード作成、2ヶ月目で赤ちゃん手帳と3ヶ月検診票を送付、3ヶ月検診を行った後、保健婦、発達相談員、医師と医療機関がその結果を徹底的に検討し、健常児、要経過観察児、このまま放置すれば将来障害児になるかもしれない子ども、そして障害児に分け、その後4ヶ月検診、10ヶ月検診、さらに2歳6ヶ月と3歳6ヶ月と検診を市民健康センターで行い、その間、6ヶ月、12ヶ月、18ヶ月、24ヶ月と質問カードを送付、カルテによって管理をあとづけていく細かな、実に思いやりにあふれた検診を行っております。そして、まさに優れているのは要観察時は適宜呼び出し、また電話や訪問をして、健常児になるまで相談、指導を継続して行うこと。
  • 障害児になると思われる子に対しては、徹底した治療、訓練、保育、母親指導、相談など、療育体制の中に取り込み、特に脳性まひ児にはボイター法と呼ばれる寝返りやはいはいなどのできる正常な反応を反射的に繰り返し引き出していく訓練法を取り入れて、成果を上げているというのです。
  • さらに、就学前の保育園、幼稚園に障害児を受け入れる体制を作るとともに、たえずそうした園に対しては、市の児童担当者が巡回して相談に応じるなど、しっかりした後付けにより、園側も安心して障害児を預かり、混合保育を成功させていくことができるよう配慮されているのです。こうして乳幼児期に徹底した治療、訓練と教育が行われた結果、放置しておけば障害児になったかもしれない子どもたちが就学時には健常になり、重い脳性まひ児も自分の足で学校に通えるようになったというのであります。
  • これはまさしく保健と医療と福祉と教育を結合させた行政であり、その実証は未来の市民を大切にする大津市のすぐれた金字塔であると考えるのです。障害者と、その家族に手厚い福祉行政を必要とするのはもとより、基本的には障害者としての対策以前の、障害者にしないための行政の全力の取り組みこそ最も重要なのですが、実際の取り組みはといえばスローガンに終わってはいないでしょうか。
  • 自分たちの優れた力を引き出していく。失われたものを数えるな。残されたものをどう使って生きていくかということに真剣に頑張って取り組んでいく障害者の人たちと触れ合っていると、「怠けていられないなー」って、そう思う。この人たちはやっぱり光。かわいそうな人たちじゃない。

■行政と住民をつなぐ

▼行政サービスへの住民参画について
  • 「ニューパブリックマネジメント」は、行政実務に民間企業における経営の視点を持ち込み、行政が行う施策の業績や成果に対する評価を重視するという発想だ。限られた財源の中で、いかに効果的で市民のニーズにあった施策を展開していくか、という発想に基づき、予算を配分し、その実施段階においても現場の創意工夫や、民間企業の活用などを積極的に取り入れながら、政策の効果を高めようとするものである。NPMの考え方を構成する主な要素は、「成果主義」「民間活用」「顧客志向」という3つに集約されるだろう。NPMの考え方においては、事業を実施したことよりも、どのような成果を生み出すことができたかが問われ(成果主義)、そのために民間で育まれた知恵やノウハウ、人材等を活用し(民間活用)、また、ここでいう顧客とは市民のことだが、市民の視点に立った施策を展開すること(顧客志向)が重視される。これらは、一般市民や企業の感覚からすれば至極当然のことであり、行政においてもこのような考え方や価値観が浸透していくことは、むしろ大いに推進すべきと感じる人が大多数だろう。
  • 行政とNPOとの協働のモデルには細かくいくつかのパターンがある。もっとも一般的な形態は業務委託であり、行政が行う業務を民間が代理で行う、という意味合いの契約形態だ。NPOが業務委託を受ける事例は数多く存在するが、例えば、市民活動等に関する意識調査、セミナー・講習会などのイベント運営、地域の子育て支援活動の事務局運営などさまざまである。
  • 業務委託の場合、NPO側は、契約上定められた仕様にしたがって業務を遂行することが当然に求められる。業務委託が、NPOにとって有利な契約形態なのか、それとも不利なものかどうかは、一概に言える話ではない。ただ、少なくとも、理屈の上では、仕様に定められた内容を実行することができなければ契約を履行したと言えず、支払いも発生しない、という契約形態であるから、開始当初の契約の重みはそれなりのものであり、発注側・受注側双方に十分な注意が必要だ。
  • 介護保険制度などの制度を活用する事業者の中にNPOが参入するという形である。2000年に導入された介護保険制度では、要介護・要支援の高齢者が、民間事業者が提供する介護サービスの中から、自身に適した介護サービスを選択できる。この介護サービスを提供する民間事業者の中にNPO法人が加わる動きが相次いだ。地域の住民によって運営される団体がNPO法人として介護サービスを提供することは、民間企業とは違った視点や地域に根差したきめの細かさを取り入れたサービスを提供することが期待され、実際、各地でそのような福祉サービスを提供するNPO法人が活動を行っている。このように、行政の制度上のプレイヤーとしてNPOが名乗りを上げることで、行政の制度がより機能するという関係を築くことが期待されている。と同時に、こうした介護保険制度などのように、行政の制度に準じた事業を展開することは安定した事業基盤を提供してくれる可能性も高いが、行政の制度そのものに見直しや再編が発生したときには大きな影響を受ける。行政制度の動向には常に十分な注意が必要だ。
  • 警察官がこういう場合気にする唯一のものは、常に面子である。彼らは、警察官以外の人間が警察より早く事件の謎を解くと、その人間は必ず警官を馬鹿にする、と考えるのである。これはおそらく権力というものの、ある確実な側面であろうと私は感じている。威張る人間は、威張らない人間に負けてはならない。権力とは、常に危ういものなのである。
▼アイデアによる協業について
  • 「アイデアによる協働」には、さまざまな手法が含まれる。政府の法案や省令、自治体の条例案や施策等を検討する際に市民が意見を提出することができる「パブリックコメント」や、行政の日頃の事業運営や今後取り組むべき施策等について提案ができる「市民提案制度」、インターネット上に市民が集まる電子コミュニティをつくる「市民電子会議室」、市民が地域の土地利用等のあり方について提案ができる「まちづくり条例」、あるいは、幅広い市民を集め主要な政策テーマに関して意見を出し合い議論する場を開く「百人委員会」など、さまざまな手法が存在する。
  • こうした制度が形骸化しないようにするためには、市民の声を受け取る行政側にそれなりの理解力と、変化に対する前向きな姿勢とが求められる。つまり、どれだけ市民が発言をしても、最終的にそれらの声をとりまとめ、どのようなかたちで法案や施策に落とし込むかは、行政担当者側の手にかかっているという危うさも、常に存在するのだ。寄せられたコメントの合計件数は公表されていても、それぞれのコメントについて同様の意見が何件寄せられたかといった詳細な内訳までは公開されていない。これではどの意見が多数を占めていたか、というようなことまでは十分には分からない。
▼指定管理者制度について
  • 委託と対比される契約形態と考えられるのが「指定管理者制度」だ。これは、図書館、公園、公民館、研修会場などの公共施設の運営に際して、NPOを含む民間団体に当該施設の管理者としての権限を付与し、施設の使用許可や施設の運用に関する企画、来場者への課金や収益事業の実施などを、規定された範囲内で、管理者となる団体が実施できるという契約形態である。業務委託よりも自由度が高く、その分、管理者となる民間団体側に事業場のリスクや責任がより多く発生する枠組みとして、効率的な行政運営を実現するための手法として広がりを見せている。民間のノウハウを公共施設等の運営に生かし、行政が定める一定の条件をクリアしていれば、あとはその管理権限を民間に任せることで、その施設が挙げる成果を高めていこうとする狙いは、「委託」という従来型の契約形態に比べて大いに可能性がある。
  • 課題はその実施状況だ。現在、日本全国で指定管理者制度を導入している施設は70,000件以上に上るにも関わらず、そのうち7割以上は、行政が関連する外郭団体が指定管理者として指定されているのが実情だ。行政のスリム化や民間開放という理念の実現までには、まだ道が遠いようだ。そして、この制度のもう一つの課題は、指定管理者となる民間事業者に対して提示する公共施設等の管理運営にあたっての条件そのものは、行政が設定するものであり、その条件次第では、民間の力を発揮できる範囲が限定的とならざるを得ないところである。民間の意欲を引き出し、市民に対する成果を高めるような契約方法については、数々の実践を踏まえた継続的な議論が不可欠であろう。
  • 民間活用については、PFIや指定管理者制度など、民間が一定のリスクを負うかわりにリターンを得ることができるような契約形態などが編み出されてきた。公共施設をNPOが運営したり、刑務所を民間企業が運営する、といったモデルも生まれてきた。
  • だが、例えば、指定管理者制度によって、施設等の運営を「任されている」組織の7割以上は、行政の外郭団体であるということも一面の事実である。「民間にできることは民間に任せる」制度のはずが、まだ十分に民間の活力を活かしきれていない状況とも言える。

■住民に求められること

  • 「顧客志向」を実現するためには、顧客にあたる市民が行政の仕組みを理解することも不可欠だ。市民と行政との理想的なコミュニケーションの実現には、お互いの理解や、両者がさわやかな関係を築くことができるような工夫が必要だ。
  • 顧客志向といっても、自治体と市民との関係は、企業と顧客とまったく同じようにはいかない。自治体職員の隠語かもしれないが、市民の中には「特定市民」と言われる人物がいる。こうした人たちは、しばしば市役所に乗り込んで自治体職員の時間をとり、さまざまな要望を言ってくる。職員としては、市民を相手に逃げるわけにもいかず、じっと聞く側にまわる。
  • 「今まで、そうしてきて問題がなかった」という考え方自体が、きわめて保守的だ。もっとよくしようとする態度が見えない。「今まで問題がなかったので大丈夫」というのではなく、「これからの時代に備えて、こうするべきだ」という発想の方が大事だ。

■被災からの復興

  • 震災後、仮設住宅ができるのはありがたいが、それができるまでの間、島に残っている旅館や民宿を島民の避難場所として国や県が借り上げて使ってもらえれば、間仕切りのない避難所生活に比べてよっぽどプライバシーが保てるし、宿にも国から収入が入ってくる。現状の避難所や仮設住宅では、島のどこにも収入が得られない。
  • ボランティアについても島外から来てもらうだけでなく、島民をスタッフとして有給雇用してもらえないか。産業がダメになっている分、働き口を失った人はたくさんいる。彼らに一日数千円でも収入が入れば自立した経済活動を行う大人としてのプライドが復活しやる気もわき、それだけでも状況が違ってくる。美化されたボランティアでなく、少々生臭くても現実的に現金がまわる方法で支援をする方がよっぽど助かる。
  • 釜石市にランドセルが足りないという報道がなされたとき、全国各地から大量のランドセルが届いた。メーカーからも新品のランドセルが届いた。しかし本当にランドセルを必要としている子どもたちの数はそんなに多くなく、その数も市として発信していたが結局大量に余ってしまって、純粋な善意が受け入れられない状況になった。ウェブサイトでもなんでも、○○が何個欲しいという情報がやりとりできたらいい。最初は食べるものがなかったし救援物資は何でもありがたかったが、状況が徐々に落ち着いてくると必要なボランティアや物資がわかってくる。需要は季節や衛生状態によっても変わるので何でもかんでもという状況ではなくなる。
  • ボランティアには適切な種類、数量、そして時期がある。ミスマッチを今後どれだけ減らし、交通整理をして効率的に回していくかが、復興にかかる時間の長短に大きく影響してくる。
  • 家屋倒壊の恐れがある建物には危険を示す赤い紙が貼られてしまうが、それを最終的に判断するのは、建築の専門家ではなく税務署。全壊なのか半壊なのかによって義援金の分配額は変わってくるし、住んでいいと判断されたとしても、建築上住んで本当に安全なのか不安が残る。実態に伴った法整備が急務。
  • 被災地のサポーターになってもらうこと。サッカーのサポーターであれば、試合に行って応援することもできるし、応援するチームのグッズを買ったり、ファンクラブの年会費を支払ったり、いろいろな形でチームを応援できる。それと同じように、被災地側でも応援してもらうためのメニュー作りをする必要がある。両者が合致すれば、これまでの枠に捉われない支援ができるのでは。
  • 瓦礫の撤去を取材していた報道陣がご遺体の発見現場に遭遇したが、遺体搬送の一部始終を撮られてしまって。亡くなった方の尊厳を保ちたいという思いと、身内の方の気持ちを考えて欲しいという願いから『撮影はやめてください』と何度も言ったが、彼らはカメラを回し続けていた。人の生死に関わることはデリケート。いくら報道とはいえ、配慮して欲しい。ただ一方で、こういう状況なんだよと伝えてもらいたいという思いもある。一定の理解はできる。
  • 3月11日の東日本大震災後の2週間の間に、首都圏で大量に放送されたAC広告は合計2万回にもなった。意味はわかるが、もう一歩踏み込んでその空枠で被災地が必要としている救援物資や細かい情報を流すような仕組みがあってもよかった。
  • 乳がんの象徴といえばピンクリボンですが、乳がん治療を目的とした寄付金付き商品が、寄付金を集める目的を達しつつ、経済的にもペイするという経済戦略。れっきとした清く貧しいボランティアは、その人の気持ちが萎えた途端、立ちいかなくなってしまう。けれど、寄付が仕事のモチベーションとして成り立つのであれば、自然と続いていくわけで。
  • 「あんたがいけないのよ。あんたが飲みに行こうなんて言わなければこんなことにならなかったのよ。」「それはその通りだ。肝に銘じて俺もそう思う。しかし、二度とそのことを口に出したら承知しない。こういうときに、俺に限らず、人を責めてはいけないんだ。俺は責められても何とも思わない。俺が悪いんだから俺は平気だ。しかし、俺を責めていくと、結局、最後は嫁を責めることになる。そうじゃないか?どんなに歳をとったって、嫁は嫁なんだ。大勢の家族や親類の中で、嫁だけが他人なんだ。俺を責めると、そういうことになってくる。だから、そういうことを言うもんじゃない。」
  • 家の前を裸足で歩いている娘、焼け跡で万年筆を探している娘。ドスト氏は家を失ったことは悲しくないが、そういう娘の姿を見るときは胸がつまったと語った。町の人や村の人は、その四畳半の部屋を訪れるのをどんなに楽しみにしていたことか。彼らは、その男の家が火事で焼けてしまったとき、まっさきに俺たちの遊びに行ける部屋を造ると言った。俺たちの部屋は俺たちで造ると言った。
  • 関東大震災直後に必要だったのは、総理のリーダーシップである。「現場で可能な限り判断して結論を出せ」そう言って現場に権限を委譲し、被災者のためになることなら、復旧に効果があることなら、上の決裁を待たずに実行させることが大切なのである。そうすれば、末端の官僚も思いきって動くことができる。しかし、その大前提として必要不可欠な条件がある。「責任は俺がとる!」そういう総理の強い姿勢である。メッセージが明確にあるからこそ、現場は知恵を出し、よかれと思ったことを躊躇なく実行に移せる。
  • 経産省が会見でつねに「管総理のご判断です」との態度をとり、いっさい経産省の見解を述べずにいたのは、こういう理由である。「東電はこう言っています、管総理はこう言いました、枝野(幸男)官房長官はこう言いました…だから、われわれ経産省もこう判断します」自分たちが直接の責任を押し付けられないよう、常にそのような予防線を張っておくのである。

■交通行政

▼都市からの車の締め出し
  • どうしたって車を少なくしていかないと解決しない問題があるが、コンビニ配送トラックみたいに社会に必要とされて存在しているトラックもある。切り分けが難しいかな。。
  • 市の中心部から車を締め出して路面電車と歩行者のサンクチュアリとする「トランジットモール」がヨーロッパで広がりつつある。こういう事例から学びたい。
  • そして幹線道路はともかく、生活道路の安全性を上げるにはガードレールよりもバンプ(道路の障害)を作った方が効果的な気がする。車のスピードを下げる規制や装置の方がてっとり早い。車の傷と人間の生命とどっちが大事かを考えれば、特に迷うこともない。
▼左折レーンの必要性
  • 右折レーンは間違いなく必要だが、左折は直進しながらでもできる。左折の専用レーンは不要では?
▼歩道橋の必要性
  • 障害者、乳幼児やベビーカーで歩く人にとっても、歩道橋はバリアフリーどころか大バリア。エレベーターつきのものを設置するくらいなら、なくてもいいのでは?
▼年齢制限
  • 13歳未満の子供と70歳以上の高齢者、身体の不自由な人は自転車通行可であろうがなかろうが歩道走行ができる。ただ13歳ではかなりスピードも出せるようになっており、事故を起こしたら小学生でも民事責任を負うことになる。もう少し下げるべきでは。。
▼電車への自転車持ち込み
  • カバーをかければ自転車でも持ち込める。大きさ的にはベビーカーよりも小さくなる自転車にもカバーをかけなければいけないのは、自転車が危険物という認識があるから。
▼電車のアナウンス
  • いつだったか伊豆急の伊豆高原駅で早朝、電車を待っていたら、三人しかいないのに「まもなくナントカ行きがやってくるから白線の内側までさがれ」などと言っていたのでおかしくなってしまった。1時間に2本しか電車が来ないのだから、みんな列車の到着時間はわかっているし、ときどき時計をみては、あと5分ぐらいかな、などとぼんやり待っている。

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