2020年1月12日日曜日

多摩地域の交通の話

■国道がない市

  • 多摩地域には、国道のない市が多い。
    立川市、武蔵野市、小金井市、小平市、東村山市、国分寺市、狛江市、東大和市、 清瀬市、東久留米市、武蔵村山市、多摩市、稲城市、西東京市…全て国道を持たない。
■甲州街道

  • 江戸時代、江戸日本橋を起点に5つの主要な幹線道路が設けられ、それらは「五街道」と呼ばれています。甲州街道は、五街道と呼ばれる東海街道、中山道、奥州街道、日光街道のひとつで、多摩地域にある幹線道路です。五街道は徳川家康が全国制覇のために整備したといわれています。
  • 甲州街道は日本橋から甲府を経て信州は下諏訪へ至る約208㎞ある街道で、45の宿場が置かれました。多摩地域にはそのうち10か所(国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿、府中宿、日野宿、八王子宿、駒木野宿、小仏宿)があり参勤交代など役人の公用交通、商人の物資輸送、時代とともに役割を広げて活発化していきます。
  • 交代で宿場業務を勤めた宿もありましたが、日野、八王子は、とくににぎわったとのことです。
■鉄道

■駅名
  • 多摩川園、二子玉川園駅は園を取り払われて多摩川駅、二子玉川駅になった。
  • 氷川駅は奥多摩駅になった。
  • 現在の明大前駅は1917年までは「火薬庫前」と称していた。陸軍の火薬庫があったため。だが、現在はこの跡地に明治大学和泉校舎がある。「前」のつく駅名は当然ながらその実体の変化につれて変わっていく。途中「松原」駅を経て現駅名になった。
  • 中央線の駅では多摩地区ではこれまでに境駅が武蔵境駅に、浅川駅が高尾駅に変わっただけ。
■御陵線
  • 御陵線の南浅川に架かっていた鉄橋の橋台や橋脚は、すべて撤去されてしまい、何も残っていないが、がっかりするのは早い。横山橋を渡り、北岸を上流方向へ川沿いにすすむと、右側に遠藤工務店という看板を掲げた家がある。ちょうどその前が御陵線の渡河地点にあたるところだが、その遠藤工務店の裏の、普通の庭先に1本、隣家との境にもう1本、高さ5mほどのコンクリート製橋脚が立っているのだ。これほど完全な姿で残っているものは他にはなく、御陵線最大の遺構といってよいだろう。
■五日市鉄道
  • 五日市鉄道が武蔵岩井まで開通すると、勝峯山の石灰石は同鉄道により搬出され、浅野セメントの川崎工場へと送られた。拝島から先は、青梅鉄道(現・JR青梅線)、国鉄中央本線、山手線、東海道線を経由するというルートであった。しかし、1929(昭和4)年12月11日の南部鉄道(現・南部線)全通により、立川から同鉄道経由で直接川崎へ輸送することが可能となった。南部鉄道は、砂利輸送を目的としてスタートした鉄道であったが、後には五日市鉄道同様、浅野セメントの傘下に入った。
■下河原線
  • 下河原線の廃線跡がはっきり残っているのは、国道20号(甲州街道)以南である。下河原緑道という名の遊歩道として美しく整備され、線路跡を完全にたどることができる。スポットパーク下河原線。番場片町北裏通りとの交差部にはレールが埋め込まれている。
■軽便鉄道
  • 水道局砂利運搬「軽便鉄道」跡。狭山湖堤にある"何か"を利用した不思議な滑り台。
■武蔵野鉄道
  • 一度鉄道が敷かれてしまうと、従来の生活は様変わりしていく。武蔵野鉄道が開通した久留米村の場合、村から運び出す物は、農作物が中心であり、一方、鉄道を通じてこの村に入ってくるものは、日用雑貨、農機具、化学肥料などの都市的物資や農業の合理化を図るもので、村の自給自足的な経済のあり方が大きく崩れ、現金で物を売買する商品経済へと変化を余儀なくされた。 鉄道が敷かれたことによって、東久留米は東京のベッドタウンへと大きく性格を変えていくことになる。
■多摩湖線
  • 西武国分寺線と同じく中央線の国分寺駅から北に向かって平行して走っているのが多摩湖線。この線は多摩湖鉄道という私鉄だったが、戦前に武蔵野鉄道に合併され、その後西武鉄道となった。八坂と武蔵大和の間で国分寺線と駅もなく交差してしまっていることが、かつて別々の会社だったことをしのばせる。
■中央線

  • 甲武鉄道(現JR中央線)は、1889年4月に新宿から立川まで、8月には八王子まで延びました。当時 新宿-八王子駅間の所要時間は約1時間半で開業当時は1日4往復でしたが、5年後には5往復に増えていきました。1906年の鉄道国有法により、甲武鉄道は国有化されました。起点の新宿から終点の立川までの間に、二つしか駅がなく、その二つとは中野と、意外なことに武蔵境。
  • 武蔵境駅は新宿・中野・国分寺・立川とともに、1889(明治22)年4月10日、中央線(当時は甲武鉄道)開業時にできた最初の5駅の1つであるという由緒ある駅。中央線が中野から立川まで一直線なのは、地形の条件の良さや、小金井や立川が駅を誘致したというのが本当。
  • 明治20年頃大問題となった甲武鉄道(JR中央線)の計画が持ち上がったときには、地元民は反発した。当時の田無町では鉄道開通によって、煤煙が養蚕に影響を与えるとか、石炭の燃え殻を機関車から投げるため、火事が起きるといった反対の声も多かった。農業を中心に生活している田無町にとっては、都心へ通勤通学することもなく、列車の必要性がなかったのである。
  • 「中央線文化」とはどんなものですか。
    >「文学や音楽、マンガ、アニメ、サブカルチャー、エスニック―。こうしたものが沿線に広がっていて、作家やミュージシャン、漫画家らがたくさん住んでいる。アバウトな人が息がしやすい環境がある。
  • 「中央線人」の気質とは。
    >「反骨があげられますね。ただ、がちがちの反骨ではありません。金持ちもいるし、成功者もいる。でも『とにかく銭や』という人は少ない。うんちくを語り、議論好きで、軽薄を嫌う。インテリですが、早大中退みたいなのが格好いいというような独特の美学の持ち主です。」
  • 山手線とは違いますか。
    >「山手線の内側の人たちは、他人と比べたがります。追いつけ、追い越せ。中央線人にはそれがない。等身大の成功、自分が充実していればいい。」
  • なぜ中央線文化が生まれたのでしょう。
    >「はっきりとは分かりません。ただ、山系の文化であることは間違いありません。理屈、議論好きで長野県人に似ている。一つのルーツが長野にあると思う。それから、学生運動やヒッピー文化、60年代、新宿を拠点にしていた文化が西へ向かった面もあるでしょう。団塊世代が核になっているのは確かですね。」
▼中央線乗車人数ランキング
2014年度日毎乗車人員数発表。 【JR東日本八王子支社発表】
  1. 立川駅  160,347人(2010年:157,000人)
  2. 吉祥寺駅 139,580人
  3. 国分寺駅 108,022人
  4. 三鷹駅  092,836人
  5. 八王子駅 084,739人
▼中央線文化人
  • 昭和初期には、高円寺から西荻窪にかけての文化人・作家グループが、井伏鱒二を中心に集って「阿佐ヶ谷会」というのを作った。これが、元祖中央線文化人の集合体です。
  • そのメンバーとは。彼を慕って集まった太宰治。仏文学者の青柳瑞穂。『チャタレイ夫人の恋人』を訳した伊藤整。文壇のまとめ役、巌谷大四。『安曇野』の作者・臼井吉見。芥川賞受賞の小田嶽夫、社会評論家でもある亀井勝一郎、仏文学者の河盛好蔵、私小説の上林暁、木山捷平、外村繁などなど、近代文学に貢献したそうそうたるメンバーが顔を連ねています。
  • 喫茶店はパリでは、さまざまな人々が集って討論したり、刺激し合う場所なのに対して、中央線のソレは、ひたすら個人が内向し、内省する場所なのです。
  • 環境保護に熱心な中央線人は、車の出す排気ガスを非常に遺憾なことだと考え、ノーカーデーすら画策されていた。
▼中央線ソング
▼中央線脈
  • 風水師・御堂龍治さんによれば、風水の龍脈は、富士山から中央線上を出たり入ったりしながら、江戸城まで到達するというお話。龍脈というのは、簡単に言えばエネルギーの流れるラインのことです。
  • さらに日本最高の預言者の一人、出口王仁三郎は、荻窪の地で「ここから関東の神の仕組みがはじまる」とのたまわったとか。
  • 霊界の案内人・丹波哲郎さんは、そのせいかどうか、西荻在住。
  • オウムの基となった団体や幸福の科学、芸能人の信者の多いワールドメイト(かつてのコスモメイト)も、西荻が発祥の地。
  • ヒゲとインド服の人が多い「ほびっと村」では、瞑想講座や夢見講座がひらかれる。
  • インドの覚者ラジネーシのセンターも荻窪にある。
  • 高円寺には、立正佼成会。
  • 超心理学者・本山博氏の国際宗教・超心理学会は吉祥寺に。
  • エホバの証人の王国会館は三鷹に。
  • 女優の沢口靖子さんも信者の真如苑は立川に。
  • 国分寺は、聖武天皇が建てた武蔵野国分寺があったところ。当時最大規模だったというから驚きますね。
■多摩モノレール(2000/1/10 開通)

  • 多摩モノレールは全部で19駅で多摩市、八王子市、日野市、立川市、東大和市を結ぶ。
  • 東京都が支柱や軌道桁などのインフラ部を、多摩都市モノレールが運営基地や変電所、車両などに関わる部分をそれぞれ負担して建設。
  • 多摩モノレールでは、貸切イベント列車として夏にはビール列車、12月初旬には夕暮れの多摩丘陵を眺めながらワインを楽しむ列車が運行している。
  • 1日の平均乗車人数は約144,000人(2018年度)。
  • 2020.1.22 多摩都市モノレール延伸へ 新年度に基本設計
    • 解消するであろう通勤・通学に不便だった状況

■自転車タクシー

立川には2012年まで、立川駅周辺に「自転車タクシー」が走っていた。

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